2017年4月28日金曜日

【「自分が本当に感じていることが何なのか分からない」のは、なぜ?】

生姜焼き定食@島根県出雲市にて

『外の情報は圧倒されるほど溢れているが、自分自身の情報はとても乏しい。
自分のからだやこころが何を感じ、何を望んでいるのか、実はよくわかっていない。
よく確かめないまま走り続け、あげくの果てにストレスをためたり、身体をこわしたりする。
とにかく、この世は忙しく、自分自身とゆっくり触れる暇がない。
というより、あってもつい外側の刺激に気晴らしを求めて次から次へとうろうろしてしまう』

現代社会学の本の中で、中野民夫さんが書かれていた言葉です。

情報がたくさん溢れている社会の中で、忙しさに流されていると、
たしかに、自分が何を感じているのかが分からなくなる気がします。

自分が感じていることをきちんと汲み上げることができると、
自分自身を取り戻すことができるのかもしれません。

では、どうしたらいいか?

中野さんは、感じていることをそのまま受けとめてもらえる場をつくり、自分とは違う感じ方をする他者の立場を尊重し、共感的に理解することを学びあう方法を提案しています。

実践に向けたポイントはいくつか挙げられていますが、私の心に響いたものは次の事柄です。

①自分や社会について深く求めるとき、「絶対」の真理を求めたくなるが、「絶対」などというものはない。

②呼吸や歩くこと、食べることなど、日常的なことを丁寧に心をこめて行うことから、我に還り、今ここで自分や世界に起こっていることをはっきり知ることができる。

③孤立からつながりへの突破口を開き、自分と社会にまともなフィードバックをかけていくためには、真実を語ること、互いに素直に語り合える場、互いをしっかり聴きあえる関係が必要である。




2017年4月27日木曜日

【「考える」という、スポーツ】


「考える、というスポーツに固有の、カラダとアタマの動かし方を知る。知るだけじゃなくて体得する」

加藤昌治さんの著書「アイデア」は、アイデアを出す方法について分かりやすく解説している一冊です。

本書によると、「考える」という行為は、スポーツ。

企業はチーム、一個人は選手です。

それぞれの選手が自分の仕事をしっかりとして成果を挙げて、チームの勝率を上げていくことが大切。

また、ビジネスはトーナメント戦よりもリーグ戦であることが多く、プロフェッショナルであれば「率」で勝負しています。

勝ち負けがあることは理解しながら、個人の打率を上げ、チームの勝率を高めようと努力を続け、結果を出すことを目指していくべきということです。

加藤さんは「アイデア」について書いていますが、小手先の技術ではなく、無意識にできるようにアタマとカラダに染み込ませることや、打率や勝率を高めるかたちで総合的な「勝ち」を目指す考え方は、アイデアの話だけにとどまらず、さまざまな事に当てはまる気がします。

自分自身の現状を眺めた時、「どちらかといえば良かった」と感じられたら、勝率が比較的に高いのかもしれません。

人生は、勝ち負けだけじゃないけれど、
望んでいる方向へ近づくために、「率」を高める努力をしたいと思います。




2017年4月26日水曜日

【「いい人」って、どんな人?】

 

「いい会社」に投資ができる仕組みをつくりたい。
しかし、「いい会社」をどのように定義したらよいのだろう?

鎌倉投信の取締役・新井和宏さんは、著書「持続可能な資本主義」で、鎌倉投信の投資の考え方や仕組みを紹介しています。

鎌倉投信をつくる際に、新井さんがぶつかった悩みは、「いい会社をどのように定義するか?」という課題。

新井さんは、目に見えない「ホスピタリティ」を経営の核としているリッツ・カールトン・ホテルの元日本支店長・高野登さんに相談にいったそうです。

新井さんが「どうしたら、ホスピタリティを定量化できるのでしょうか?」と尋ねたところ、高野さんの答えは簡潔。

「ホスピタリティを定量化してはダメ」というものでした。

高野さんによると、「ホスピタリティは、標準化すると、ただのサービスになる。お客様に出会い、その時々の状況で、目の前の人のために何かしようと思うから感動が生まれる。目の前のお客様に、その時、その場所で、1対1の関係で生まれるのが、ホスピタリティ」ということです。

新井さんは、「指標をつくって画一化しようとすれば、企業は指標を満たそうとするあまり個性を失い、社会から多様性が失われてしまう」と書いています。これが、鎌倉投信が投資をする「いい会社」について定量化していない理由です。

私は、ここで、「いい会社」を「いい人」に置き換えてみたらどうだろう?と考えてみました。

人の場合、「指標」や「定量化」といえるような明確な基準で「いい人」を判断することは少ないかもしれません。

ぼんやりとした価値観や好みに基づいて、「いい人」かどうかを考えているように思います。

もちろん、自分の価値観や好みは大切にしたいものです。

しかし、それらにこだわりすぎると、見えなくなるものもあるような気がしてきました。

つまり、「いい人」も定義してはダメかもしれない。

自分が持っている価値観では測れないものがあることを頭の片隅に置いておき、これまでの人生で経験したことのない事や異質な人に出会った時に、「何かしよう」と思える余地をもっていたいなと考えたりしています。

お読みになりたい方は⇒持続可能な資本主義



2017年4月24日月曜日

頑張り尽くしたら、どうなるんですか?




 「頑張り尽くすと、そのあとに溶けあう」

先日、ワークショップの企画等をされている中野民夫さんのお話を聞く機会があり、
印象に残ったのは、「溶けあう」というお話でした。

何かにこだわると、壁にぶつかることがあります。意見対立をすることも出てきます。
それでも、考えたり、悩んだりしながら、頑張り続けていくと、最終的には、壁のように見えたものや、意見対立していた人のことも、受けとめられるようになり、「溶けあう」ような心境になるということだと解釈しました。

中野さんは、
「溶けあう」地点に到達するためには、その前に「頑張り尽くす」ことがなければならないとも付け加えられ、それもまた、印象に残りました。

様々なことを大きな器で受けとめられたら、それは素晴らしいけれど、
誰もがそんなふうになれるわけではないでしょうし、
少なくとも、私自身は、まだまだ。


今、目の前のことに、精一杯、頑張る。そのことに尽きるのだと思います。

2017年4月21日金曜日

【「お前の考えていることが、分からない」。その一言の前に】

「お前の考えていることが分からない」
スターバックスの店舗内、上司(男性)と部下(女性)のやり取りが耳に入ってきました。スーツ姿の女性は、20代か30代前半。少し気弱なタイプなのか声が細く、黙りがちでした。
一方の上司は、女子社員の受け答えがハッキリしないので戸惑っており、居心地悪そうです。

部下にしてみたら、「分からないって言われても…。だったら、どうしたらいいの?」ということかもしれません。
上司の立場で考えると、どうしたらいいか分からなくて、つい、「分からない」という本音が出てしまったように見えました。

この上司と部下の関係、どうしたら、上手くいくでしょうか?

①「分からない」を前提にする
そもそも他人の考えを100%分かっていることはありえないです。
分かっているつもりで、分かっていないこともあります。
分かりあえるのが当たり前とされると、苦しくなります。
お互いに分からないからこそ、分かりあえる方向に向けて努力しよう。
そこから出発したいですね。

②「分からない」ことを相手のせいにしない

上司が部下に「お前の考えていることが分からない」と言う時、
「私が分からないのは、お前のせいだ」と言ってしまっている気がします。

上司は自分自身を振り返り、
『相手のことが「分からない」のは、なぜか?』
『「分かる」ためには、どうしたらいいか?』という問いを立ててみてはいかがでしょうか?

③中心を自分自身から外す

どうしたらいいかが分からず、不安やイライラが言葉にでてしまったとしたら、
良い対話が生まれる空気にはなっていないと思います。

怒りや不安などマイナス感情を上手くコントロールする方法の一つとして、
自分自身の中心をほんの少しずらすイメージを持つとよいそうです。

例えば、悲しい時、自分の心の中心を占めている悲しさに意識が集中しています。
すると悲しみにとらわれて、ますます悲しみから逃れにくくなります。

そこで、中心を自分自身から外して、中心にある悲しみから少し距離を置くイメージを持ちます。そうすると自分の感情を、少し離れたところから眺めることができます。

中心を自分ではなく、他人に置き換えると、とらえ方が変わることもありますね。
『もし、自分が相手の立場だったら、どんなことを考えているだろう?』と想像してみると、相手の気持ちに近づけるかもしれません。









2017年4月20日木曜日

【自分一人を超えるところを目指す。そこに自信がある】



「自分の意見」は持つべきではない。
これは、哲学者・池田晶子さんの一言。

池田さんによると
必要なのは、「その人がそう思うだけのその人の意見」ではなく、
「誰にとってもそうであるところの考え」です。
「誰にとってもそうであるところの考え」は、自分一人を超えている。
それが自分を超えていることを知っているから、人は自信を持てるといいます。

私は、こんなふうにブログに投稿しながら、
「頭でっかち」「理屈ばかり」になってしまっているように思うことがあるのですが、
池田さんの指摘を受けて、仮に「頭でっかち」「理屈ばかり」になっていても良いんじゃないか。と思えてきました。

自分の頭の中でいろいろ考えていることについて、他人とのシェアを試みるのが「投稿」だと思いますし、それは、「誰にとってもそうであるところの考え」につなげるアクションだと思うのです。

他者から、「いいね!」や「コメント」をもらうことが自信につながった経験、
ありませんか?

SNSにおいてシェアが多い投稿は、「自分の意見」ではなく、「誰にとってもそうであるところの考え」に触れているような気もします。

自信は、自分の考えが「誰にとってもそうである」といえる状態を目指して、
他者と共有できるものを探っていくことから湧くのかもしれません。



2017年4月18日火曜日

【上品って、そういうことだったのですか?】

母と話をしていて、仏像の話になり、

「上品」という言葉の意味を教えていただきました。

一般的には、「上品」=じょうひん と読み、品の良いという意味ですが、

仏教用語では「上品」=じゅうぼん と読みます。

極楽浄土の階位には、九品(くほん)というものがあり、9つの階位として上品(上上品・上中品、上下品)、中品(中上品、中中品、中下品)、下品(下上品、下中品、下下品)があります。上品は、上位3階位の総称になります。

私たちが日頃使っている「上品」も「下品」も、仏教の極楽浄土の階級を示す言葉に由来しているそうです。

宗教を特に信仰しているわけではないのですが、
上品(じょうぼん)の意味を考えてみると、
なぜ、上品(じょうひん)な振る舞いが大切なのか?が分かるような気がします。

上品(じょうひん)な振る舞いは、他人への気遣いが含まれ、他人に敬意を払うことにもつながります。そうした振る舞いができる人は、その振る舞いを見ていた人からきちんと評価されるように思います。その延長線上に、極楽浄土での階位もありそうです。


上品(じょうひん)を心掛けたいですね。

2017年4月17日月曜日

【勢いが大事なんです】


『姿勢って、「姿」に「勢い」って書くでしょ』

知人が、思いついたように言いました。

彼女によると
「姿勢」とは、単なる「姿」ではなく、
「勢い」が加わっている状態であり、エネルギーを持っています。
姿勢が崩れていると、体のバランスが悪くなり、エネルギーがうまく使えない。
スポーツでいえば、よいパフォーマンスができなくなります。

勢いが大事であり、
姿勢が大事という話でした。

1週間の仕事のスタートを切る月曜日。

勢いよくいきましょう。

2017年4月14日金曜日

【自己肯定感、低いとダメですか?】



フルーツビネガーをつくりました

「自己肯定感」という言葉、

20代から30代の方のコーチングをさせていただいている時に、よく出てくる言葉です。

言葉を分解していけば、「自分」を「肯定的」に捉えることになり、

「自己肯定感」が「低い」と気にされている方が多いです。

引きこもりになってしまうほど「自己肯定感」が低くなってしまう場合は、
そこから抜け出すための策(専門家的なアプローチ)が必要だと思いますが、
コーチングを受けようという気持ちを持っている前向きな方や、
少なくとも誰かと話そうという姿勢を持てる方の場合、
「自己肯定感」が低いことは、むしろ、とても上手に活用できる気がしています。

「自己肯定感が低い」と気にされている方の場合、
「自己肯定感」がずーと低いわけではなく、
高くなったり、低くなったりの波があり、
たいていは、低くなった時に気にしてしまいます。
自己肯定感が低くなっていることに、とても「敏感」といえます。

この「敏感さ」を上手く使うことができると、気づきが生まれます。

「自己肯定感が低くなる時は、どんな時か?」を問うだけでも、
自分の価値観が明確になりますね。

自分の価値観=自分の軸 がつかめると、
そこから先に、どうしたいのかも明確にできるように思います。

つまり「自己肯定感が低い」ことが気になっている時は、

さまざまな気づきが生まれるチャンスといえるのではないでしょうか?

2017年4月13日木曜日

プライドのために「好きにしろ」

#梅どらやき@つくば


「齢をとると、すごく頑固になるのよね」

電車の中で、中高年の女性の声が耳に入ってきました。

話のタネは、仕事をリタイアした夫についてです。

夫が自宅にいるため、気をつかい、食事を用意することが大変というものでした。

夫には「食事は、妻に用意されるもの」というこだわりがあり、

奥さんはその「夫のこだわりに応じなければならない」と思っているようです。

若いころはそれほどこだわりが強くなかったが、年齢を重ねるにつれて譲れないことが多くなってきたようです。


哲学者・池田晶子さんは、「プライド」について次のように書かれていました。

『自分の人生は、生きたいように生きればよい。他人にどう見られるかが、なぜ、問題か。

問題は、自分に対する恥である。

自分が自分に恥ずかしいと感じる、これが本当の恥になる。

自分に恥じない。それを「プライド」と呼んでみる。

他人に恥じるのではなく、自分に恥じない。これが本当のプライドである』

 つまり、人生は、自分が「好きなようにしろ」という意味。

年齢が高い夫からの「食事は妻がつくる」という要望を受け入れるばかりでなく、自分の好きにすることを選び、嫌なら辞めてみると、この奥さんの「プライド」が生まれるのかもしれません。


「生きたいように生きる」を身に着けると、世界が拡がりまそうですね。



2017年4月12日水曜日

【難しくて大変ですか?それとも、意外と簡単で楽しいですか?】



「障害のある人も、障害のない人もともに安心して暮らせる家」をコンセプトにしているシェアハウス「ぱれっとの家 いこっと」では、入居者募集をしています。

「いこっと」とは、どんな家?を簡単に説明すると
①障害のある人も、自分の力で暮らせる家
②一人ひとりが個室を持ち、共用のキッチンとリビングがある
③入居者同士のコミュニケーションを大切にし、自分たちで住まい方をつくっていく家
です。

私は、入居者の一人として、時々、「いこっと」での暮らしについて質問を受けますが、
質問は、2つの種類に分けられます。

一つは、「障害のある人と暮らすなんて、大変なのでは?」というマイナスイメージから出てくる質問。もう一方は、「障害のある人と暮らすなんてなんだか面白そう。どんなふうに生活しているの?」という興味から出てくる質問で、プラスイメージから出てくる質問です。

「障害のある人と、障害のない人がともに安心して暮らす」というコンセプトに興味を持ち、どちらかといえばプラスのイメージを持っていても、「私は、選択しない」という立ち位置の方もあります。仕事の都合や好みのライフスタイルを考えると、「いこっと」での暮らしは、自分の求める暮らしとは違う。つまり、頭では「価値がある」と思っても、感覚的に受け入れられない方もいます。

この家での暮らしについて、私自身が「難しくて、大変ですか?」と聞かれたら、答えはYESですし、「簡単で楽しいですか?」と聞かれたら、こちらも答えはYESです。

「難しくて大変」と思うことはあり、また、「簡単で楽しい」と思うこともあるからです。
ただし、少し強調しておきたいことは、「難しい」と感じることは、「障害」が原因となって発生するとは限らないということです。
むしろ、「障害」が原因と言い切れず、複雑な背景が絡み合って発生しているようにみえる問題が「難しい」のです。その難しさにどう向き合うか?が問われます。

これまでの人生で経験したことがない「問い」が多いので、正直にいえば、とても重いです。
でも、そういう問いに向き合うからこそ、得られるものは大きいです。

私自身が「いこっと」での生活を通じて得た気づきは沢山ありますが、
あえて挙げるなら、
「障害のある人」と「障害のない人」との境界線は、よく分からないということ。
障害の有無ではなく、「人」としての「在り方」が大切だということ。
他人に向き合うことで、自分のことが見えてくるということ。

自分の価値観のものさしが変わり、物事を柔軟に捉えるようになったり、
逆に、大切にしたいことは、徹底して貫こうとする経験もありました。

似たような経験ができる場所は、他にもあるのかもしれませんが、
「いこっと」は、さまざまな学びを得られる場の一つであると思います。

入居にご関心のある方は、まずは、体験入居から。
WEBサイトで、恵比寿の「NPO法人ぱれっと」を検索して、「いこっと」の詳細を確認して、お申込みください。http://ikotto.npo-palette.or.jp







2017年4月11日火曜日

【富士山に登ったことがない理由】


「富士山には登ったことがある?」

山好きの友人から質問されました。

「静岡県内で育ったけど、ないなぁ…」

私にとって、富士山は、中学校への登下校で毎日遠くに眺めていた山。

「登る」というよりも、「見る」対象でした。

友人は、「身近すぎると、興味が沸かなかったりするよね」と一言。

確かにそんなものかもしれません。

「当たり前」になってしまうと、

そこに在ることの意味や価値に気がつかないものです。

「まだ、見たことのないものを見よう」と挑む気持ちがあることで見えるものと

「今、見ているものをより深く見よう」という気持ちがあることで見えるもの。

同じものを見ていても、異なる側面が見えてきそうですね。



2017年4月10日月曜日

「ごめんなさい」が言えずに




「ごめんなさい」を言わなくてはならないと、ずっと思っていました。

謝らなくてはならないと思っていた相手は、とてもお世話になっていた方。

その人は、私を浅草に連れて行き、生まれて初めてのどじょうをご馳走してくださった人でした。ついでに神谷バーに寄り、電気ブランを教えてくれました。一緒に原宿でジャズを聴きにいったこともありました。社会に出て間もない私の仕事の愚痴を聞き、アドバイスしてくれたこともありました。

とてもお世話になっていたのに、私が傲慢だったために些細な行き違いがあり、なんとなく距離ができてしまいました。私は原因を相手のせいにして、自分を省みないで過ごしてきてしまいました。

「ごめんなさい」を言わなければならないと思うようになったのは、最近のこと。

気が付いていたはずなのに、それでも連絡を取ることもなく、何となくそのままにしてしまいました。逃げていたのかもしれません。

その人が、逝ってしまいました。

「ごめんなさい」を言えないまま、
「ごめんなさい」を伝えるチャンスさえなくしてしまいました。

書くことで何かが変わるわけではないのですし、

書くことは不適切なことかもしれない。

どこかで「許されたい」という思いの表れかもしれません。

自分が傲慢だったこと、自分が足りなかったことを、胸に刻んでおかなければいけない。

今はそう思うだけでいっぱいです。

最近、読んだ本の中で、アインシュタインの言葉「大切なことは質問をやめないことだ」が紹介されていました。

自分ができなかったこと、やり残したことを、どうするか?
それが今の、私自身への「問い」かもしれません。