2022年7月25日月曜日

◆「どうしますか?」という問いの重さ

 
 困っている人がいたら、「どうしますか?」と尋ねる。
 「どうしますか?」という問いは、相手の意思を尊重するものだ。 
「あなたの困りごとは、こうすれば解決できる」など、 相手が置かれている状況や抱えている問題を勝手に解釈して、自分の意見を押し付けることはすべきではない。そう思っていた。

 しかし、こういう姿勢では、深刻な問題を抱えて困っている人を助けることにはならないかもしれない。
「どうしますか?」は、とても困っている人にとって、「重い」問いである。 
 この本を読んで、気が付かされた。 

 「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」は、精神科医の森川すいめいさんが、日本国内で「自殺希少地域」とされている場所を尋ねて、気が付いたことをまとめたエッセイだ。 著者が訪れた「自殺希少地域」は観光地ではなく、公共交通の便が悪い田舎だ。そうした地域をいくつか尋ねて、お手洗いを借りたり、食事ができる場所を教えてもらったりしながら、その土地の住人や商店、行政の人などと話をし、そこから感じたものを綴っている。

 「生きやすさ」がある地域とは、どういう地域なのか? 
特に人と人とのつながりがどうなっているのか? 
困っている人が孤立しないように、どのような仕組みがあるのか? 
著者が旅の中で気が付いたことを挙げている。 

 「どうしますか?」という問いについて、著者は、日頃取り組んでいる支援活動を振り返って、次のように書いている。 

 ひとの支援をするときに、上手な支援者と、もう一工夫したほうがよいと感じる支援者 がいる。(中略) 
あまり支援に慣れていない支援者は、「どうしますか?」と聞いてしまう。 
もちろん、聞かなければ分からないことが多いのだが、どうしますか?と聞かれると、支援を受ける側は躊躇してしまう。 
現実的には助けが必要なのだが、相手に迷惑をかけてまで助かりたいとは思わない。迷惑なのかどうかをいつも考えてしまう。

 支援を受けることは正当なことだとどうどうと伝えなくてはならない。 
互いに助け合うのが当たり前なのだとどうどうと伝えなければならない。
 それでも嫌だというのならば、それは本人の本物の意思だ。
 駆け引きのない意思だと分かる。 そうしたらまた別のことを考えたらいい。 対話を続けるのである。 

 著者は、意思決定を相手任せにせず、相手がどうしたら困っていることを解決できるのかを考えて提案することが大事だと指摘する。 対話を続ける。つきあい続ける。 支援をする人のそうした姿勢が支援を受ける人に伝わると、うまくいくという。 

 本当に困っている人に、「どうしますか?」と尋ねる問いは、 時と場合によっては、「どうしたいのか、あなたが決めて」と言っていることになるかもしれない。

 支援する・支援される関係のつくり方、 人と人のつながりの工夫について、改めて、考えさせられる1冊。

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2022年7月19日火曜日

◆大人になるって、どういうこと?

生きている間に、

健康でいる間に、

活動する意欲を持てている間に、

私がしたいことは何だろう?

私にできることは何だろう?

 

最近、時々、考える問いです。

 

20代や30代の頃も、同じような問いを考えていたと思います。

しかし、30代くらいまでは「したいこと」「できること」の内容を考えることに懸命だったのに対し、最近は「生きている間」「健康でいる間」とか「意欲がある間」などの前提が、以前より重みを持って感じられるようになってきました。

 

自分がしたいと思うことは、できるうちに、しておきたい。

そういうことを考えるのは、自分がしたいと思っても、できなくなることがある。

何かをしようという意欲を持つことが難しくなってくることがある。

ということを知る機会が増えてきたからかもしれません。



 

長田弘さんの散文詩集「深呼吸の必要」に収められている「あのときかもしれない」

という作品は、「きみが、子どもから大人になったのは、いつか?」という問いに、「あのときかもしれない」という瞬間、場面が1から9まで挙げられている。

 

「あのときかもしれない」の2つ目では、

赤ちゃんから子どもになって、はじめてぶつかる難題。一人でおしっこにゆくことを決心することについて書かれている。おしっこを誰かに代わってもらうことはできない。自分が決めなければならない。

つまり、自分のことは、自分で決めなくてはならないということを知る。

好きだろうが嫌いだろうが、自分という一人の人間にしかなれないと知ったとき、

一人の子どもから、一人の大人になる。

 

「あのときかもしれない」の6つ目では、「なぜ」という疑問について書かれている。

子どもは、様々な物事に「なぜ?」と考える。しかし、いつしか「なぜ?」という口にしなくなっていく。元気に「なぜ?」と考える代わりに、「そうなっているんだ」という退屈な答えで、どんな疑問も打ち消してしまうようになった時、一人の子どもでなく、一人の大人になっている。

 

長田さんの作品を読み返しながら、私自身が子どもから大人になった「あのとき」はどんな時だっただろうか?と考えた。

 

年齢的には十分に「大人」になっているが、自分で自分のことを決めなくてはいけないと分かっていても、しっかり決めきれていない面もある気がする。

世の中の大半のことは「そうなっているんだ」と受けとめて生活しているけれど、

「なぜ?」と疑問を持つことを大切にしたいと思うこともある。

物事によっては「なぜ?」を考えすぎると、うまくやっていけない関係性もあるので、そこは疑問の持ち方やその程度を自分で調整しているかもしれない。

 

歳を重ねても、大人になりきれていないと思う側面がある気もしている。

 

718日、誕生日のお祝いメッセージをたくさんの方から頂きました。

コロナ禍でなかなか会えなくなっている方が多いので、嬉しかったです。

本当にありがとうございました。

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