2013年4月24日水曜日

ほっといて「あげる」と「もらう」


他人に優しくするにはいろいろな方法がやり方がありますが、

「ほっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。

でも、適切な仕方で、「ほっといてもらう」ことほど、

人間にとって心休まることはないのです。

 

単に「ほうっておく」ではなく、

「ほっといて『あげる』」

「ほっといて『もらう』」。

 

言葉づかいからも分かるとおり、

それが、敬意の応酬であることは、双方にちゃんと意識されています。

 

ほんとうに親しい人たちの間では、ときには、「何もしない」ということが、

貴重な贈り物になることもあるんです。

 

でも、こういうことには、「コミュニケーションとは、贈与である」という、

ものごとの基本が分かっていないと、なかなか理解が及ばないでしょう。

 

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内田樹さんの著書に、

「家族を基礎づけるもの」という題で書かれたものがありました(一部改変)。

 

家族や友人など、親しい人との距離感、

離れ過ぎると寂しいし、

近すぎては窮屈に感じてしまいそうです。

 

お互いに、相手の状況や気持ちを察しながら、

適度な距離感を保っていくということに

なるのでしょうか?

 

「何もしない」というのは、

本当に「まったく何もしない」ということではなく、

直接、話したり、一緒に行動したりはしないけど、

相手のことを心の片隅に置いて、気にかけている。

そんな状態なのだと思います。

 

イイ感じで、「ほっとおいて『あげる』『もらう』」ができたら、素敵だな。

と思います。

 

先日、俳優・三国連太郎さんがお亡くなりになりましたが、

三国さんが出演されていた「人間の約束」という作品を思いだしました。

 

認知症、介護、家族の在り方、生き方…などのテーマを含んだ作品で、とても重いのですが、学生の頃にビデオで観て、「家族」について、いろいろ考えさせられた作品の1つです。

 

2013年4月19日金曜日

うまくいかないことに、発見がある


うまくいかないことについて、

「諦めて、何もしない」という選択肢もあるけれど、

「なんとかしたい」という思いを捨てず、

必死に、あれこれと試行錯誤してみるからこそ、

得るものがあるのかもしれません。


大野更紗さんの新刊「さらさらさん」に、次のような言葉(一部改変)がありました。


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うまくいかないことに、発見がある。


傷ついた人に触れるときは、自分だって傷つく。

「棄てない」で、人と関わろうとすると、失態ばかりでうまくいかない。


凡庸にズッコケまくってやっと、

自分の視界がひろがってゆく。

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「うまくいかないこと」は、1つの試練なのかもしれません。


だからこそ、必死に取り組むと、見えてくるものがあるのかな。

2013年4月16日火曜日

愛することの反対は、憎しみではなく、無関心


「愛の反対は、憎しみではなく無関心です」

有名なマザー・テレサの言葉です。

 

私が、この言葉から考えるのは、2つのこと。

 

1つは、

「関心を持つことがスタートライン」ということです。

 

例えば、障がい者を取り巻く問題について

自分ができることは、わずかなことにすぎない。たいしたことはできない。

などと感じることがあります。

 

そんな時、

「無関心」よりは、まず、「関心」を持つこと。

そして、「何もしない」よりは、わずかなことでも「何かする」こと

そうすることで何かが見えてくるし、きっと、未来が開けてくる。

 

そう考えるようにしています。

 

もう1つは、

「社会の中で起きている問題について、敏感でありたい」ということです。

 

例えば、

震災で大きな被害を受けた東北の方のこと、

日本で生活している難民の方のこと、

 

心に留めているつもりでも、

距離があったり、時間が経過するにつれて、

「無関心」に近い状態に流されてしまいそうな気がすることがあります。

 

愛の反対は、「無関心」。

自分への戒めの言葉でもあります。

2013年4月15日月曜日

「個性」を知ることとは?


「個性を知る」ということは、

ある意味で、とてもきついことです。

 

内田樹さんの著書に、こんな指摘がありました。

 

「個性」とは、他の人とは異なる特徴。

「ずば抜けた才能」につながる印象もあり、

どちらかといえば良いイメージを持っていました。

 

でも、そうではない側面もありそうです。

 

自分のものの見方、考え方について、

「個性的」だと思っていても、

 

実は、親の見方や考え方を引き継いでいたり、

育った地域には、同じような考え方をする人が多かったり、

同じ世代の人たちには共通点が多くあったりします。

実は、個性的でない部分がたくさんある。

 

これを、裏側から考えてみると、

 

本当に「個性的」であることは、

誰とも共有できない感覚、気持ち、

誰からも承認されない考え方などを抱えている

ということになります。

 

「天才」は、孤独である。

 

そんな言葉もあったように思います。

 

物事は、表裏一体というのかな?

2013年4月4日木曜日

幸福と不幸は、障害のある・なしではなく、人それぞれのもの。~出生前診断に寄せて

障害者として生きていくことは、本当に不幸なことなのか。

はたまた障害と幸福には、何の相関関係もないのか。

それは親ではなく、 本人が生きていくなかで判断していくべきことだと思うのだ。

もちろん、平坦な道でないことはわかっている。

いじめ、差別、偏見――。

障害者として生きていくには、まさに多くの「障害」が待ちかまえている。

でも、健常者に生まれたからといって、幸せな人生を歩めるとはかぎらない。

そして、障害者に生まれたからといって、不幸になるともかぎらない。

つまり、生きてみなければ、その人の人生が不幸かどうかなんて、わからない。

どんな苦しい境遇に生まれても、大逆転でHAPPYな人生を歩むことになるかもしれない。

それなのに、生まれた時点で「この子は不幸だ」と決めつけてしまうのは、あまりにもったいない気がしてしまうのだ。

と、僕がいくら言ったところで、やっぱり子どもを生み、育てていくのは親だ。

その親が、羊水検査をした結果、「やはり、障害者としての人生は不幸にちがいない。

だから、私たちは中絶する」という決断を下したならば、何も言うことはできない。

口をはさむべきことじゃない。

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「五体不満足」の著者、最近は「だいじょうぶ3組」が映画化された 乙武洋匡さんのツイッターにあったものです。

少し前のものなので、羊水検査について触れていますが、 障害のある子どもを持つことについて書かれています。

4月1日から、妊婦の血液だけでダウン症など胎児の染色体異常を判定できる 新型の出生前診断が受けられるようになりました。

羊水検査に比べると、比較的簡単に調べることができます。

しかし、十分な情報を持たないまま、診断を受けて、 中絶が広がるのではないかと懸念する声もあるそうです。

医療技術が進展して、以前は分からなかったことを知ることができるようになりました。

患者や家族にとって選択肢は増えましたが、 「命」に関わる選択は、とても重いものだと思います。

出生前診断について考えると、 ご夫婦の「選択の自由」を尊重しなければならない と思う一方で、

「障がい」の有無を調べるという行為そのものに、 「障がい」に対する見方や考え方が反映されているように思い、 誤解や偏見とつながりが気になります。

乙武さんは、上記の言葉に続けて、次のように書いています。

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そこで、僕が何らかの役割を果たせたらと思っている。

「乙武さんみたいに、幸せそうに生きている人もいるな」

――お腹のなかの子に身体障害があるとわかっても、僕の生きる姿から「産む」決断をしてくださる方が、少しでも増えるように。

僕がメディアに登場する理由の多くは、そこにある。

もちろん、「やっぱり、障害者なんて産むんじゃなかった…」と後悔することのないような社会にしていくことも、僕が果たすべき役割のひとつだと思っている。

でも、こればっかりは、一人じゃどうすることもできない。

どうしても、みなさんの理解と手助けが必要です。

大切な命を守っていくために。

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親になった経験がないので、 実感として分からないこともありますが、

でも、やっぱり、 乙武さんの言うとおり、

幸せか、不幸かは、障害のある・なしではなく、人それぞれのもの。

だと思います。