2022年10月16日日曜日

【あなたを閉じ込める「ずるい言葉」】モヤモヤしても言い返すことができなかった。あの時の私に贈りたい一冊

 

 子どもの頃、大人から言われた一言に、納得できないものの、言い返すことができなくて、もやもやした経験はないだろうか? 

 大人の話を聞いていて矛盾する点があり、「オカシイ」と指摘したら、「子どものくせに、偉そうなことを言うな」と言われたり、 こちらが頼んでもいないことをされて、不満を述べたら、「あなたのことを思って、こうしているんだよ」などと言われたり、 「自分の意見ははっきり言いなさい」と言われたから、はっきり言うと、怒られたり。 

 誰にでも、大なり小なり、そんな経験があるものだと思う。 

 成長するにつれて、子どもは大人には大人の事情があることを知る。
私自身、人間関係を上手くやっていくには、自分の心の中にもやもやしたものがあっても、 それを見て見ぬふりしたほうが良いと考えるようになった。 
 「世の中、そんなもんだ」と、どこか諦めてやり過ごすことが大人になることなんだと思うようになった。

 森山至貴さんの著書「10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」」を読んで、 自分が 子どもの頃、大人から言われてモヤモヤした言葉、 仕事関係の人から言われてモヤモヤした言葉に類似する言葉を思い出し、 モヤモヤした理由が明確になった。 

 そして、そのモヤモヤを感じたことは当然であり、 正々堂々とモヤモヤして良いのだと思えてきた。 心の深いところにあった傷が癒されたようにも思う。

一方で、自分自身も「ずるい言葉」を使っていることに気が付かされた。 
 自分と相手との関係性、相手の状況、相手を取り巻く環境を踏まえて、 言葉を選ぶことがいかに大切か。 その点を改めて考えさせられる1冊。

2022年10月4日火曜日

障害は軽いほうがキツイ?

 

 「知的障害は軽い人ほうがキツイかもしれない」
 障害者に接する機会が多い友人と、 知的障害のある人について話していた時、 こんな指摘があった。 「キツイ」というのは「生きづらい」という意味だ。 

 障害の程度が軽い場合、重い人と比べると、「できる」ことが多い。
 障害のない人と一緒に働いたり、自分の意思で稼いだお金を娯楽に使ったりすることができる。
 一方で、障害のない人と障害のある自分とを比べて、その違いを自覚する。障害のない人からの偏見や差別にも気が付く。そして、劣等感を抱えている人もいる。 自分自身の障害や、障害のために生じる「差」が分かることで傷つく。 それゆえに「生きにくさ」=「キツさ」があるように思うということだった。

 「初恋、ざらり」は、軽度な知的障害のある女性・上戸有紗と、障害のない男性・岡村の恋愛を軸に、職場の人や家族との人間関係を描いている漫画だ。

 二人の恋愛が進展していく過程で、
好きな相手に、障害を隠し続けるのか。カミングアウトするのか。
 付き合い始めた後、相手に障害があることを知った時、どう受けとめるのか。
 日常生活や仕事で、障害ゆえに起きる「失敗」の出来事に、どう対応するのか。
 親に紹介する時、相手の障害についてどう説明するのか・しないのか。 
などなどの課題が描かれている。 

有紗と岡村それぞれの心情が細やかに表現されている作品だと思う。 

 この漫画を読んで、改めて
「障害が軽い人のほうがキツイかもしれない」という友人の指摘を考えた。 

障害の種類や程度と、「キツさ」を単純に結び付けるのは不適切かもしれない。 
ただ、その「キツさ」がどういうものか。 どういう場面で、どんな出来事に直面し、戸惑ったり、悩んだりするのか。 また、それを乗り越えるには、どうしたらいいのか。 この漫画は一つの例を示してくれている。


2022年9月28日水曜日

【おいしいごはんが食べられますように】自分と社会の間で「食べる」が歪む

 

 「カップ麺やコンビニ弁当だけの生活は寂しい」 
 「1日3食、きちんと食べたほうが健康によい」 
 「一人で食べるより、恋人や家族と一緒に食べたほうが美味しく感じる」 などなど 

 いつ、何を、どこで、誰と、どんな風に食べるのが良いか(悪いか)。 
 あれこれ言ったり、言われたりすることがある。

 「食べる」は、自分の生命を維持していくために必要な行為だが、 経済的にある程度豊かになっている日本の社会では、 「食べる」という行為に、生存目的以外に様々な意味や価値を持たせる。

 自分の価値観が、社会(世間)で広く共有されているものと重なれば、 ストレスになることは少ないだろう。  しかし、そうではない時がやっかいだ。 

 社会(世間)とずれていても、 自分の価値観に従った食べ方をするのか。 
 それとも、自分が持っている価値観を隠し、 世間に受け入れられる食べ方をするのか。
 その選択は、自分自身の在り方、生き方に重なるにちがいない。 

 芥川賞受賞作「おいしいものが食べられますように」は、
 「食べる」という行為に焦点を当て、 登場人物それぞれが持っている価値観の違いを対比している。そして、その違いにより発生している人間関係の歪みを描きだした作品だ。 

 
「食べる」は、日常の行為ゆえに、この歪みは小説だから発生する特別なものではなく、 現実の人間関係の中にも、大なり小なりありそうだ。 そんなことを考えると、背筋がぞわぞわした。


  

2022年9月11日日曜日

なぜ、戦争がなくならないのか? 「戦争、反対!」というだけでは足りない理由

 

 戦争なんて、ないほうがいい。 平和であることが一番。 多くの人が、そう思っているものだと思う。 しかし、戦争は起こってしまう。 

 「戦争、反対!」と声を挙げることは大事だけど、それだけでは足りないと感じていた。 
ただ、一体、何が足りないのか? ずっと言葉にできなかった。 その答えをくれた一冊が「戦争は人間的な営みである」(石川明人・著、並木書房)だ。


戦争は「悪意」よりも、むしろ何らかの「善意」によって支えられているのである。人は必ずしも、「優しさ」や「愛情」が欠如しているから戦うのではない。誰かを憎み、何かと戦うには、そもそもそれ以前に、別の誰かを愛し、別の何かを大切にしていなければならない。何らかの意味での「愛情」あるいは「真心」があるからこそ、人間は命をかけて戦うことができてしまう、戦争を正当化できてしまうのだ。

もちろん戦争の悲惨さや悲しさを伝えていくことは、とても大切である。しかし、そうした情緒に訴えるだけが平和教育ではない。むしろ、冷静な視点から「戦争」や「軍事」を学ぶことも、大切なのではないだろうか。

私たちは、交通事故あるいは家事などに対して「火事反対」「交通事故反対」とデモ行進をしたりはしない。交通事故を減らしたければ、「反対」と叫ぶ以前に、自動車、道路、標識、信号機などについて、あるいは運転する人間の行動などについて、研究するしかない。自動車や交通規制について無知であれば、交通安全についても無知であろう。

  同じように、「戦争反対」と叫ぶだけでは意味がないのである。  

 

私自身、戦争をテーマにした映画や小説などを見たり、読んだりすることがある。それらには戦争の悲惨さ、悲しさが描かれている一方で、家族や友人への愛、友情、仲間との絆、困難に立ち向かっていく勇敢さが描かれている。敵と戦う登場人物の姿がカッコ良かったりして、魅力を感じたりもする。戦争はないほうがいい、平和が一番と思いつつ、愛や友情、勇気などに魅かれることがある

映画や小説など楽しんでいる時はそれでいいかもしれないが、時と場合によっては、「家族や恋人を守るために戦う」など、戦争に向かっていく理由にすり替わる可能性があることを認識しておく必要はあるだろう。

この本を読んで、改めて、「平和教育」の内容について考えさせられた。
過去の戦争について、例えば原爆の悲惨さなどを教わるような機会はあったと思うが、それ
以外に何かを学んだ記憶が私にはない。

著者が指摘するように、戦争が起こることを防ぐために、軍事や戦略などを学ぶことも必要なのかもしれない。それがどのようなものなのか知らないと、それが起こることも防ぐことは難しいと思う。

刺激的なタイトルだが、講演をまとめた本なので、著者の話を聞いているようにすっと読める。

教育に携わっている方、子育て中の方にぜひ、手にとっていただきたい1冊。




 

 

2022年8月5日金曜日

【モリ―先生との火曜日】いかに死ぬかを学ぶことは

 
 「お金持ちになりたい」
 「やりがいのある仕事をしたい」
 「人から称賛されるような成果を残したい」 
 どんな生き方をしたいか?と問われたら、 私は、どう答えるだろう? 

 その答えは、 生活のスタイルから出たものだろうか。
 仕事の種類や内容に関するものだろうか。 
それとも友達や家族や仲間との人間関係を基盤にしたものだろうか。

 「モリ―先生との火曜日」は、「どんな生き方をしたいか?」という問いを読者に投げかけてくる1冊だ。 

 スポーツコラムニストの著者は、ある時、テレビで大学時代の恩師モリ―先生の姿を見かける。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病を患っているモリ―先生のもとに、様々な人が訪れ、話をしていくということを紹介している番組だった。 

 番組を見た後、著者は卒業以来、長年会っていなかったモリ―先生を訪ね、火曜日に通うようになる。 徐々に思うように体を動かせなくなるモリ―先生と、著者は様々なテーマで話をする。

 「後悔について」「死について」「家族について」「老いることへの恐怖について」「愛について」「感情について」「お金について」などなど。 
2人の会話から、読者も、自分自身の人生について考えることになる。 


 「いかに死ぬかを学ぶことは、いかに生きるかを学ぶことだ」 

モリ―先生の考えは、この一言に表されている。

 「GIVE&TAKE」ではなく、「GIVE&GIVE」。
 「与えることは、生きること」 

 幸せを感じることができる人は、どんな人なのか? 何をしている人なのか? モリ―先生は、自分に残された人生の時間を使って教えてくれる。 

 https://amzn.to/3zsgAiQ

2022年7月25日月曜日

◆「どうしますか?」という問いの重さ

 
 困っている人がいたら、「どうしますか?」と尋ねる。
 「どうしますか?」という問いは、相手の意思を尊重するものだ。 
「あなたの困りごとは、こうすれば解決できる」など、 相手が置かれている状況や抱えている問題を勝手に解釈して、自分の意見を押し付けることはすべきではない。そう思っていた。

 しかし、こういう姿勢では、深刻な問題を抱えて困っている人を助けることにはならないかもしれない。
「どうしますか?」は、とても困っている人にとって、「重い」問いである。 
 この本を読んで、気が付かされた。 

 「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」は、精神科医の森川すいめいさんが、日本国内で「自殺希少地域」とされている場所を尋ねて、気が付いたことをまとめたエッセイだ。 著者が訪れた「自殺希少地域」は観光地ではなく、公共交通の便が悪い田舎だ。そうした地域をいくつか尋ねて、お手洗いを借りたり、食事ができる場所を教えてもらったりしながら、その土地の住人や商店、行政の人などと話をし、そこから感じたものを綴っている。

 「生きやすさ」がある地域とは、どういう地域なのか? 
特に人と人とのつながりがどうなっているのか? 
困っている人が孤立しないように、どのような仕組みがあるのか? 
著者が旅の中で気が付いたことを挙げている。 

 「どうしますか?」という問いについて、著者は、日頃取り組んでいる支援活動を振り返って、次のように書いている。 

 ひとの支援をするときに、上手な支援者と、もう一工夫したほうがよいと感じる支援者 がいる。(中略) 
あまり支援に慣れていない支援者は、「どうしますか?」と聞いてしまう。 
もちろん、聞かなければ分からないことが多いのだが、どうしますか?と聞かれると、支援を受ける側は躊躇してしまう。 
現実的には助けが必要なのだが、相手に迷惑をかけてまで助かりたいとは思わない。迷惑なのかどうかをいつも考えてしまう。

 支援を受けることは正当なことだとどうどうと伝えなくてはならない。 
互いに助け合うのが当たり前なのだとどうどうと伝えなければならない。
 それでも嫌だというのならば、それは本人の本物の意思だ。
 駆け引きのない意思だと分かる。 そうしたらまた別のことを考えたらいい。 対話を続けるのである。 

 著者は、意思決定を相手任せにせず、相手がどうしたら困っていることを解決できるのかを考えて提案することが大事だと指摘する。 対話を続ける。つきあい続ける。 支援をする人のそうした姿勢が支援を受ける人に伝わると、うまくいくという。 

 本当に困っている人に、「どうしますか?」と尋ねる問いは、 時と場合によっては、「どうしたいのか、あなたが決めて」と言っていることになるかもしれない。

 支援する・支援される関係のつくり方、 人と人のつながりの工夫について、改めて、考えさせられる1冊。

 https://amzn.to/3b5A3xB

2022年7月19日火曜日

◆大人になるって、どういうこと?

生きている間に、

健康でいる間に、

活動する意欲を持てている間に、

私がしたいことは何だろう?

私にできることは何だろう?

 

最近、時々、考える問いです。

 

20代や30代の頃も、同じような問いを考えていたと思います。

しかし、30代くらいまでは「したいこと」「できること」の内容を考えることに懸命だったのに対し、最近は「生きている間」「健康でいる間」とか「意欲がある間」などの前提が、以前より重みを持って感じられるようになってきました。

 

自分がしたいと思うことは、できるうちに、しておきたい。

そういうことを考えるのは、自分がしたいと思っても、できなくなることがある。

何かをしようという意欲を持つことが難しくなってくることがある。

ということを知る機会が増えてきたからかもしれません。



 

長田弘さんの散文詩集「深呼吸の必要」に収められている「あのときかもしれない」

という作品は、「きみが、子どもから大人になったのは、いつか?」という問いに、「あのときかもしれない」という瞬間、場面が1から9まで挙げられている。

 

「あのときかもしれない」の2つ目では、

赤ちゃんから子どもになって、はじめてぶつかる難題。一人でおしっこにゆくことを決心することについて書かれている。おしっこを誰かに代わってもらうことはできない。自分が決めなければならない。

つまり、自分のことは、自分で決めなくてはならないということを知る。

好きだろうが嫌いだろうが、自分という一人の人間にしかなれないと知ったとき、

一人の子どもから、一人の大人になる。

 

「あのときかもしれない」の6つ目では、「なぜ」という疑問について書かれている。

子どもは、様々な物事に「なぜ?」と考える。しかし、いつしか「なぜ?」という口にしなくなっていく。元気に「なぜ?」と考える代わりに、「そうなっているんだ」という退屈な答えで、どんな疑問も打ち消してしまうようになった時、一人の子どもでなく、一人の大人になっている。

 

長田さんの作品を読み返しながら、私自身が子どもから大人になった「あのとき」はどんな時だっただろうか?と考えた。

 

年齢的には十分に「大人」になっているが、自分で自分のことを決めなくてはいけないと分かっていても、しっかり決めきれていない面もある気がする。

世の中の大半のことは「そうなっているんだ」と受けとめて生活しているけれど、

「なぜ?」と疑問を持つことを大切にしたいと思うこともある。

物事によっては「なぜ?」を考えすぎると、うまくやっていけない関係性もあるので、そこは疑問の持ち方やその程度を自分で調整しているかもしれない。

 

歳を重ねても、大人になりきれていないと思う側面がある気もしている。

 

718日、誕生日のお祝いメッセージをたくさんの方から頂きました。

コロナ禍でなかなか会えなくなっている方が多いので、嬉しかったです。

本当にありがとうございました。

https://amzn.to/3oh0lzK

2022年6月28日火曜日

【言葉の温度】「友達以上、恋人未満」と「知り合い以上、友達未満」

 

 「よく言われる サム(somethingを略した造語で、友達以上、恋人未満を意味する)というのは、愛に対する " 確信”と”疑い”の間の戦いさ。確信と疑いは、潮の満ち引きのように入れ替わるものだ。 

そうして疑いの濃度が薄まって確信だけが残ると、そこで初めて愛が始まるんじゃないだろうか」


 上記は、韓国の作家 イ・ギジュさんのエッセイの翻訳本「言葉の品格」の中で、著者が、哲学書を出している出版社の社長さんから聞いた話として紹介されている一節だ。

この一節は、恋愛ドラマ「ボーイフレンド」で登場人物のセリフに使われたこともあり、

よく知られているようだ。

気になる異性について、ただの友達だと考えると何か違う気がするが、一方で、恋人にしたい人かと考えると、それもしっくりしない状態、「友達以上、恋人未満」の状態を、どう表現したら適切か?

「確信と疑いの戦い」という表現を読んで、なるほど、そうかもしれないと思った。

恋愛の可能性がある異性とのはっきりしない関係には、「友達以上、恋人未満」があるが、

もう少し対象者を広げて、はっきりしない相手との距離感を考えると、「知り合い以上、友達未満」がある気がする。この「知り合い以上、友達未満」の関係については、大学生の頃、男子同級生と意見が合わなかったことを思い出す。何がきっかけだったのかは忘れたが、大学の同級生が「友達の数は減らせる」と口にしたことが妙に心に引っかかった。

「互いに気が合う」とか「一緒にいて楽しい」などが前提になって、人と人は「友達」の関係になる。大学の専攻が同じとか、趣味が同じ、サークルが同じなどで、互いに存在を知っている「知り合い」はできても、「ただの知り合いの一人」から「友達」になるには、互いに距離感が縮まるような何かを共有しているはずだ。人数をカウントして、増やしたり、減らしたりをコントロールできるかのような考え方が、当時の私には、しっくりこなかった。

今、振り返ると彼が言おうとしていたことが少し理解できる。

例えば、SNSのFacebookの「友達」を考えると、どこかで1回お会いして「友達」になったものの、それ以降、お会いすることがなく、SNS上でも特にやりとりすることもなく、そのままになっている人がいる。大学生の時の私なら、それは「友達」ではなく「知り合い」と位置付けるような関係だが、Facebook上は「友達」だ。Facebook上の「友達」の数は、アカウントの保有者の意思で、減らすことができる。

ただ、SNS上であっても、リアルであっても「知り合い」と「友達」の間の関係性は残る。

「友達以上、恋人未満」の状態を、「確信と疑いの間の戦い」と表現するなら、

「知り合い以上、友達未満」の状態は、どのように表現したらいいだろう?

「共感や共有と、非共感・非共有の間の戦い」だろうか?

「知り合い以上」の場合、関係の方向性が「友達」ではない場合もあるだろう。

私の場合、パラスポーツの情報発信で関わるライターやカメラマンさんは、「恋人」でも「友達」でも「知り合い」でもなく、志を同じくする「仲間」、「同志」のような関係と言ったほうが適切な気がする。

自分にとって「知り合い以上」の相手との関係性が、その後、どのような方向性に進むのか。「友達」に向かうのか、「同志」なのか。それとも人生で教えを乞う「恩師」か。

「知り合い以上、友達未満・同志未満・恩師未満…」の関係で、心の中で、潮の満ち引きのように入れ替わるものは何だろうか?

Amazon「言葉の温度」 

2022年6月19日日曜日

【世界を手で見る、耳で見る】その一言に、潜んでいるものは?

 「申し訳ない」という謝罪の言葉があっても、その言葉を口にした時に相手の表情や、醸し出す雰囲気、それまでの人間関係から考えて、その言葉を口にした相手の心の中に、ほとんど気持ちがないと感じると、腹が立つことがある。

 しかし、その相手と、ある程度の関係を維持しなければならない場合、

 「本当は、申し訳ない気持ちなんて1ミリもないでしょ?」などと、キレることはせず、

 「いえいえ、お気になさらずに」などと、こちらも謝罪を受け入れる振舞いをする。

 逆ギレしたりなどしたら、自分自身が損することを知っているからだ。

 「ありがとう」という感謝の言葉であっても、似たようなことは起こる。

 「申し訳ない」と比べると、「ありがとう」は、言われて不快になる人が少ないだろうから、とりあえず「ありがとう」と言っておくことがある。

 「ありがとう」と口にしておいたほうが「得」だと判断しているからだ。

そんなふうに、「言葉」が含んでいるもの(意味)と、それを口にしている人の心・頭の中にあるもの(考え、気持ち、価値観)は、必ずしも一致していないことがある。

 その不一致が気になって、居心地の悪さもあって、時々考えることは、これまでもあった。

 しかし、堀越喜晴さんの著書「世界を手で見る、耳で見る」を読んで、

 言葉を通して、人の心・頭の中にあるものが表れていること。

 言葉と、考えや気持ち、価値観が一致している場合に、もっと目を向ける必要を感じた。

 一致しているからこそ、浮き彫りになる問題がある。

著者は2歳半までに網膜芽細胞腫(目のがんの一種)で両眼を摘出している。

「目でみない族」の人だ。

 例えば、目で見る族が、目で見ない族の人に、「普通の名刺しかなくて、すみません」

 と言う場合。

特に、ひっかかりを感じないで過ぎてしまう人もいるかもしれない。しかし、立ち止まって、「普通」とは、何か? と考えてみる。

 私自身が、名刺を受け取る立場になったとして、

「あなたに渡すための「普通じゃない」名刺は、持ち合わせていなくて、すみません」

と言われたとしたら、どうだろう。「あぁ、私は、普通じゃないのね」と改めて思わされる気がする。言われ続けたら、慣れっこになり、ああ、またかと思うようになるかもしれない。ただ、慣れてしまえば、それでいいという問題でないと思う。

心の奥底でふつふつと、「普通じゃない」と言われることに抵抗したい気持ちが燃え続けていくような気もする。

目で見る族の私自身を振り返ると、自分が何気なく放った言葉にも、無意識のうちに潜んでいる偏見や差別がある気がする。気が付かないまま通り過ぎてきたことがあると思う。 恐ろしいのは、気がつかないままでいることだ。

改めて、「言葉」と、その基盤にあるものに意識を向けたい。

本書には、著者が大学で授業をする中で出会った出来事や、大学生の様子などから、感じたことや考えたことをテーマにしたものも数多く、収められている。最近の学生の態度や言葉に現れているものは、彼らを取り巻く環境や社会を反映していると思うと、希望を持っていいところと、不安に思えるところもある。

また、著者の息子さんは、2021年夏の東京パラリンピック・マラソンで銅メダルを獲得した堀越信司選手だ。

著者が患った網膜芽細胞腫は遺伝性が高く、息子の信司さんは生後40日で右眼を摘出、左眼はなんとか視力をとどめたという。

 本書の中には、信司さんが、幼い時、自分の目が他の友達と違うことを自覚した時のエピソードも収められている

「その時」というタイトルで綴られている一遍は、読みながら、涙がこぼれた。

 本書は、子育てをされている方、教育に携わっている方に、メディアなど言葉を使う仕事をしている人などに、ぜひ、読んでほしい。

 最近、読んだエッセイ集の中で、特にお勧めの1冊。

Amazon「世界を手で見る、耳で見る 目で見ない族からのメッセージ」

https://amzn.to/3xF4SQR

2022年6月5日日曜日

【赤いモレスキンの女】フジテレビ月9で放送していた、あのドラマを思い出した

 

 「赤いモレスキンの女」を読んで、私の頭の中には、俳優の中井貴一さんが現れた。
 この小説のストーリーと、なんとなく似たようなテレビドラマがあった気がしたからだ。

 恋の落ちる(と思われる)男女が出会うまでを描いていて、 仕事や家族に関わるさまざまな出来事が起こって、主人公の男女2人はすぐには出会わない。 
 出会わないのだけど、互いに見知らぬ2人の距離が少しずつ近くなっているのは、 読者・視聴者は読んで・見ていて、分かる。そんなストーリーだ。

 「赤いモレスキンの女」は、主人公の男性が、赤いモレスキンの手帳が入ったハンドバックを拾うことから 物語が展開する。 
 手帳に書かれていた言葉を読んで、持ち主の女性のことが気になりだす。 顔も、名前も分からないが、鞄に入っていたものを手掛かりに、持ち主を探し始める。 

主人公の男性は脱サラをして、書店を営んでいる。
離婚した妻との間に娘がおり、時々、会っている。
つきあっている彼女との関係がなんとなく上手くいっていない
そのようなことなどを描きながら、 鞄の持ち主の女性を見つける手がかりが現れてくる。

 こういう展開の場合、 読者は、「この2人は、出会う」「この2人は、恋に落ちる」と概ね分かっているので、 その分かっている結末までの道のりを、いかに楽しませるか。がポイントだろう。 
2人が出会って、恋に落ちることに納得がいくように、 登場人物の背景や周囲の人物との関係性を描き、 2人の距離が縮まるような出来事を入れていくのだ。 

 ネタばれになるとつまらないので、詳細を紹介するのは避けたいが、 「赤いモレスキンの女」は、フランス・パリを舞台に、洗練された大人の男女の雰囲気が醸し出される。 
 主人公の男性の一人娘も、しっかりと自分の意思を持ち、自立していて、かっこよく描かれている。 

 ちょっとロマンティックな気分に浸りたくなった人に、お勧めの1冊だ。 

 この本を読んで、私が思い出したドラマは、1995年のフジテレビの月9「まだ恋は始まらない」だった。 
 主演は、中井貴一さんと小泉今日子さん。 
 ストーリーの詳細は覚えていないのだけど、 恋に落ちるはずの2人がなかなか出会わない設定や展開について、「おしゃれだなぁ」と思っていたことは 覚えている。

 調べてみると、脚本家は岡田恵和さん(NHK朝ドラ「ちゅらさん」「ひよっこ」など)だった。 90年代のテレビドラマだけど、今見ても古くない気がする。 
 「赤いモレスキンの女」を読んで、「まだ恋は始まらない」を改めて観たくなった。
 
 アマゾン「赤いモレスキンの女」 https://amzn.to/3GSJtrH

2022年5月29日日曜日

【若きアスリートへの手紙―<競技する身体>の哲学】「スポーツには、力がある」と思い込むことの危険性

「スポーツには、力がある」

どこかで聞いたフレーズだ。私自身が、パラスポーツの記事を書いた時、どこかで使ったことがあるかもしれない。

元フィギュアスケート選手の町田樹さんの著書「若きアスリートへの手紙 <競技する身体>の哲学」を読んで、改めて、これらの言葉を使う際には慎重にならなければいけないと反省した。

若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学amzn.to
3,960(2022年05月29日 21:20時点 詳しくはこちら)
Amazon.co.jpで購入する

町田さんは、次のように書いている。

スポーツは、スポーツ以外の何者でもない。そして本人が一番分かっているように、アスリートが競技会で行えることは、やはり競技以外にない。にもかかわらず、己の権内を超えて、「スポーツには力があり、感動を与えられる」と猛進するのは、やはり傲慢かつ危険なことなのではないだろうか。

(本書 P458より)

新型コロナウイルス(SARS-COV-2)の感染拡大により外出自粛が強く求められていた頃、特にワクチン接種が普及するまでの間、「こんな状態でスポーツをしていいのだろうか?」と考えたアスリートは、少なくなかったのではないだろうか。

2021年夏に開催された東京パラリンピックでは、日本代表選手たちのインタビューの中で、
「コロナ禍の中、開催してくださった方に感謝します」
という旨の言葉を数多く耳にした。
SARS-COV-2感染拡大以前、2016年のリオ・パラリンピック、2012年のロンドン・パラリンピックで、そのような言葉を聴いた記憶はない。
「パラリンピックが開催されること」
「パラリンピックで競技ができること」
多くの日本代表選手が、こうしたことの有難さ、価値を実感したのかもしれない。

ただ、彼らの「感謝」の言葉を聞けば聞くほど、私自身は、彼らに対して言葉を返したい気持ちになった。
日本代表選手たちは、コロナ禍の中、トレーニングを続け、パラリンピックでもっとも良いパフォーマンスを発揮するために努力してきたはずだ。自らが感染しないように、日常生活のあらゆる場面で気を使ってきたに違いない。
「アスリートがいるから、パラリンピックができる」
パラリンピックの競技会場に入り、選手たちの姿を写真撮影していたからかもしれないが、私は、彼らに対して「感謝するのは、こちらですよ」と思っていた。

本書の中で、著者の町田さんは、「スポーツは必要か?」と問うことについても、触れている。

アスリートはアスリートとして存在しているのであって、競技をすることに引け目やうしろめたさを感じる必要はない。
アスリートは自分が理想とするパフォーマンスを追求すればそれで十分であり、感動の授与や、世界平和、心の結束、経済効果などのために存在しているのではないからだ。

パラリンピックの取材の中で、日本代表選手が「バリアフリー政策」や「女性の活躍推進」などについて意見を求められている場に出会ったことがあった。
私自身も、「コロナ禍でのパラリンピック開催について、どう思うか?」と選手に尋ねたことがある。
しかし、町田さんの言葉を基に振り返ると、「一個人として。どう思うか?」を尋ねるのか。「アスリートとして、どう思うか?」を尋ねるのか。私自身がまず、整理しておく必要があった気がする。

本書は、町田さんが自身の経験をもとに、若いアスリートたちに伝えておきたいことをまとめた1冊だ。自らの失敗や反省を踏まえたアドバイスがたくさん含まれている。
「スランプ脱出法」「緊張状態の制圧戦略」「基礎とは何か」「ライバルとは」など、競技力向上に向けたものから、引退後のキャリアデザインなどにも触れている。

若手アスリートにはもちろん、アスリートの指導やサポートに携わる人、メディア関係者にもお勧めの1冊だ。

2022年5月24日火曜日

【同志少女よ、敵を撃て】京都で「戦争」といえば、応仁の?

 大学卒業後、生まれ育った静岡県から出て、京都市内で生活を始めた頃、 京都の文化や慣習について、さまざまな「噂」を耳にした。

「京都の祇園のお店では、紹介者がない状態で初めて来たお客さんは入れない。”一見(いちげん)さん、お断り″のお店がある」

「創業100年程度では、たいした歴史ではないと思われている。(もっと長い歴史を持つ企業やお店があるから)」 など、いくつかあるが、

その一つに、「京都で″戦争”といえば、太平洋戦争ではなく、応仁の乱のことを指す」というものがあった。

「戦争」というと、多くの日本人がまず思い浮かべるのが、太平洋戦争だろう。1941年の日本軍による真珠湾攻撃で始まり、1945年に終戦を迎えた戦争だ。

一方、応仁の乱は、室町時代の1467年から1477年の約11年、京都を中心に起きた戦だ。京都が焼け野原になったと言われている。

私が耳にした噂は、京都人は京都が長い歴史を持つことを誇りに思っているため、「戦争といえば太平洋戦争ではなく、応仁の乱」を共通の認識としているというものだった。

噂の真偽は、確かめていない。

ただ、同じ国で生活していても、生まれ育った地域や環境、家族や学校を通して身に着けた思想や価値観などによって、「戦争」と聞いた時に思い浮かべるものが異なる可能性があるのだと考えていた。

小説「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬・著)は、第二次世界大戦中、ドイツとソビエト連邦の間で起きた独ソ戦を舞台にした物語だ。

ドイツ語を学び、ドイツとソ連の架け橋になる外交官を夢見ていた少女は、目の前で母親をドイツ軍に殺される。暮らしていた村の人々も皆、殺された。これを機に、少女はナチス・ドイツ軍と戦う道を進むことになる。

少女にとって真の「敵」とは誰のことなのか?

何のために戦うのか?

こうした「問い」を読者に投げかけながら、物語が展開する。

読み始めは、登場人物のセリフや物語の展開に、「ちょっと都合が良すぎない?」と突っ込みを入れたくなったが、後半、主人公の少女にとっての「敵」とは誰だったのかが明確になるクライマックスは読みごたえがあった。

主人公と共に戦う狙撃兵の少女たちはそれぞれ、戦う目的は異なっている。

ナチス・ドイツ軍の軍人、ソ連の軍人、一般の市民もそれぞれ、独ソ戦の捉え方、戦う理由が多様であることを描いた作品だと思った。

生まれ育った地域や環境、家族や学校を通して身に着けた思想や価値観、自らの経験などによって、「戦争」と聞いて思い浮かべるものが異なる。

そのことを踏まえたうえで、史実から学ぶことが大事なのかもしれない。

アマゾン「同志少女よ、敵を撃て」

https://amzn.to/3wEUt8y

2022年5月18日水曜日

【いつもの言葉を哲学する】無意識に使っている言葉に意識を向ける面白さ

「丸い」「四角い」とはいうけれど、なぜ「三角い」とは言わないのか。

なぜ、親になると、子どもに向かって「パパは、・・・」「お母さんは、・・・」などと自称するのか。

なぜ、「パンツ一枚」ではなく、「パンツ一丁」と言うのか。

などなど、

日常的に使っている言葉の中には、言われてみると不思議なこと、疑問になることが潜んでいる。

無意識に使っている時は、これらの不思議に気がつかない。

指摘されてはじめて、「あれ、どうしてなのだろう?」と疑問になる。

いつも使っている言葉だけに、そこから疑問が沸いてくると新鮮だ。

「いつもの言葉を哲学する」(古田徹也・著、朝日新書)

は、多くの人が無意識に、日常的に使っている言葉の例を挙げて、

「これ、不思議じゃないですか?」と問いかけてくる。

なぜ、そういう使い方になったのか。

なぜ、そのように表現するのか。

改めて考えさせる。

それは、言葉やその使い方の基盤となっている

価値観や思想、倫理、歴史や社会的背景などに目を向けることになった。

読み進めるなかで、本書のタイトルに「哲学する」と付けられている理由が分かってきた。

考え始めると深いが、誰もが日ごろ使っている言葉の話だけに、

家族や友達との会話のちょっとした「ネタ」としても使えそうだ。

最近読んだ本の中で、予想以上に、特に面白かった1冊。

https://amzn.to/3NjlGTV

 

2022年4月28日木曜日

「意見を出してください」と言われても、意見を出せない理由

 

 「意見がある方は、出してください」 

 そんな呼びかけをした人の顔を見て、 「意見はあるけど、出すのはやめておこう」と思ったことがある。
 頭の中に意見は持っているけれど、それを出すことで、どうなるか?を想定し、 自分にとって得にならないな、損することになるかもしれないと思ったからだ。
 「黙っておいたほうが得」という判断だった。 

 結局、誰からも何の意見も出ずに、その集まりは終わったが、 気持ちのもやもやは残った。 
 「意見がない」という状態は、「異論がない」ということになり、 意見を求められた原案通りになるだろう。 変更や改善をしたほうがよい点を指摘する意見を出し合って、 よりより案にまとめていく可能性はなくなったからだ。 

 では、「意見を出したほうが良かった?」と自問したが、 私の答えは「ノー(No)」だった。 「意見を出してください」と呼びかけた人は、 自分がまとめた原案どおり、進行したい人だ。 

 だから、もし意見を出したとしても、 「そんなことをしても意味がない」 「一部の人にしか受けない」 「そんなのは、売れない」 理由や根拠をまったく示さずに、 他の意見を潰す姿が目に見えた。 
 意見を出したら、意見を出さなかったことによるもやもやよりも、 さらに不快な気持ちになりそうだった。

 『問いかけの作法』(安斎勇樹・著)は、職場のチームで、メンバーの魅力や才能を引き出す「問いかけ」を学べる1冊だ。 

 「問いかけ」は、質問の仕方だ。 具体的な問いかけの例を見ていると、「ああ、こんなふうに言い換えられたら、話しやすくなるなぁ」と思えるものが多い。
会議の場で、意見を出しやすくなる気もする。 

 一方で、そもそもこの本を手にするのは、 会議を活性化したいとか、部下やチームのメンバーに問いかけて意見や提案を引き出したい と思っている人なんだろうなぁと思う。


 https://amzn.to/36R1tVN

2022年4月20日水曜日

【我が友、スミス】筋肉美を追求する場で当てられた「女らしさ」の評価のものさし

 

 「我が友、スミス」は、会社員の女性U野がトレーニングジムで声をかけられたことをきっかけに、ボディ・ビル大会への出場を目指す物語だ。スミスとは、筋トレのマシンの名前である。

ボディ・ビルの大会に向けて、肉体改造に取り組む中で、当然、U野の身体は変化していく。大会で「勝ちたい」という思い、自分に得意なことがあったのだという自覚、自信が出てくる。

一方で、職場の同僚からは「彼氏ができたの?」と問われる。
母親は、ボディ・ビルを男性のように筋肉ムキムキになることだと捉えており、「女らしくない」と懸念が示される。

さらに、ボディ・ビル大会での高評価を得るためには、肌の美しさ、ハイヒールで綺麗に歩くことなども必要とされていることが分かる。

なあ、母ちゃん。先日は、すまなかった。だが、あなたが「女らしくない」と評したボディ・ビルは、実はそうじゃないのだよ。この競技は世間と同等か、それ以上に、ジェンダーを意識させる場なのだ。「女らしさ」の追求を、ここまで要求される場を、私は他に知らない。人は、ボディ・ビルを「裸一貫で戦う」競技と見做し、その潔さを称える。ところが、そんな称賛に、私は鼻白んでしまうのだ。(「我が友、スミス」より)

 ボディ・ビルの大会での評価のものさしが基盤としている価値観に、気が付いた時、
彼女はどうするのか? それは、クライマックスで明らかになる。

ボディ・ビルって、「そんな競技だったの?」という驚き、「それと、これとは関係ないじゃん!」と言いたくなるような、大会の評価基準の不思議があった。

読み始めた当初は、肉体改造により、主人公がこれまでの人生で感じていた抑圧的なものから解放されていく物語かと思っていた。

しかし、物語の後半、ボディ・ビルは「女らしさ」が押し付けられる競技であることが示され、当初の予想とは逆になり、面白かった。


2022年4月11日月曜日

【ほんのちょっと当事者】「当事者」ではないけれど、「非当事者」でもない

 

 「当事者」という言葉は、あまり積極的に使いたくない言葉の一つだ。

 「当事者」は、事故や事件を起こした加害者あるいはその被害者を指して使うことが多いと思っているためかもしれない。 

 「私は、当事者だ」と言うと、事故や事件、何らかのトラブルで揉めている状態のど真ん中に立たされる気がして、 想像しただけで気が重くなってしまう。 

 では、他人に対して、「あの人が、当事者だ」と考えた場合はどうか。 

 「あの人が、当事者だ」と言う時には、「私は、当事者でない」が前提となる。
 事故や事件、トラブルの渦中から距離を置き、自分自身は安全圏にいて、 そこから上から目線で当事者を見ているような気がする。

 一方、 「あの人が、当事者だ(私は当事者ではない)」と言うと、 「私には、直接の関係はない」さらに「私には関係ない」と言っている気もする。 事故や事件、トラブルに対して、何か考えなくていい。無関心になってもいい、 言い訳に「当事者」を使ってしまう気がする。 

 「当事者」ではないけれど、「非当事者」だと断定したくない時がある。 
 「もしも、自分が当事者だったら?」 
 「もしも、自分の友達や家族が当事者だったら?」と考える時には、 「当事者」に近い位置に立っているはずだ。 
 「非当事者」という言葉からイメージするよりも、 「当事者」のほうに寄っている気がする。  そういう立場に立つ人を指す、適切な言葉があったらいいと思っていた。 

 「ほんのちょっと当事者」(青山ゆみこ・著)は、 児童虐待、性暴力などの問題について、 「自分事」として捉えて書かれているエッセイだ。

 著者自身が過去に経験したことを踏まえて 「当事者」に近い視点で書いているものもあるし、 ライターの視点から、他人事を自分事に引き寄せて書いているものもある。 

 「ほんのちょっと当事者」の「ほんのちょっと」の加減は、 取り上げているテーマによってさまざまといえる。 

 「当事者」ではなく、「非当事者」でもない立場を「ほんのちょっと当事者」と位置付けたとしても、それでスッキリするわけではなさそうだ。

この「ほんのちょっと当事者」になって考えることは、自分自身と当事者との「ほんのちょっと」の距離感を、 自分自身に問い続けることになるのかもしれない。 


 AMAZON「ほんのちょっと当事者」 https://amzn.to/3KvviK6

2022年4月6日水曜日

【旅する練習】我孫子から鹿島まで歩いてみたくなる1冊

「旅する練習」(乗代雄介・著)は、作家の主人公が、中学校入学を控えた姪とともに、千葉県我孫子から茨城県鹿島まで歩いていく物語だ。

我孫子って、どんなところ?

鹿島って、何があるんだっけ? と、思いながら読み始めた私にとっては、 ガイドブックのような本だった。

主人公は、旅の行程のところどころで見たもの、捉えたものを綴っていく。

その中で、民俗学の祖といわれる柳田國男のこと、小島信夫の作品「鬼(えんま)」のことなど、土地に縁がある作家や作品について触れており、 「へぇ、なるほど、そんな地域なのね」と思わされる。

一方、姪っ子の亜美(あび)は歩きながらサッカーの練習、リフティングを続けている。

鹿島を本拠地とするサッカーJリーグの「鹿島アントラーズ」のこと、

このチームのクラブアドバイザーとなっているブラジルの元サッカー選手ジーコのことも物語の中で紹介される形になっており

「ジーコってそんな選手、監督だったんだぁ」

「鹿島アントラーズって、そういう地域にあるのね」と知り、思わず応援したくなってきた。

物語の終盤は、そういう終わり方になっちゃうのかぁ…と、少し残念な気もしたのだが、別の終わり方にしたら物語にそれほど起伏ができなかったかもしれない。

読み終えた後、 我孫子から鹿島まで歩いてみたくなった人、意外と多いのではないか。

作品の舞台になった土地を訪れる「聖地巡礼」を、この「旅する練習」を片手にやってみたら面白そうだ。

「旅する練習」のルートが上手に活用され、集客できたら、地域振興・地域活性化に貢献する1冊になるかもしれない。

Amazon「旅する練習」
https://amzn.to/35Jjjtg

2022年4月3日日曜日

【女の子だから、男の子だからをなくす本】男が泣くもんじゃないとか、女のくせに口を出すな、なんて言われたことはありませんか?

 

 

 「女の子だから、かわいくしないとね」

「男が、人前で泣くもんじゃない」

子どもの頃、「女の子だから」「男の子だから」と性別を理由に

「こうしないといけない」「こうするべきだ」と言われた経験はありませんか?

女の子でも、かわいいより、かっこいい感じが好きな子がいてもいいし。

男の子でも、泣きたい時には人前で泣いていい、はずだ。

それなのに、なぜ、「女だから」「男だから」と考えてしまうのだろう?

なぜ、「女だから」「男だから」という枠組みで物事を考え、自分自身の言動を性別に基づいてししばってしまうことが起こるのだろう?

この本は、「女だから」「男だから」という見方や考え方の呪縛を解く

きっかけとなる1冊だ。

「女だから」「男だから」といわれてきたことに、なんとなくモヤモヤしていたり、

違和感を感じていた人は、その理由が見えて、すっきりすると思う。

絵本だけれど、これは子どもより、親、大人のための1冊。

Amazon「女の子だから、男の子だからをなくす本」

https://amzn.to/35Anfwp




2022年3月28日月曜日

【だから僕たちは、組織を変えていける】変えたいのは組織なのか、自分なのか。

 

 

 会社、学校、趣味のサークル、地域の活動団体などなど、 大なり小なり「組織」に所属せずに、生きていくことは難しい。 
 組織のメンバーが自分と気の合う人ばかりなら良いが、 たいてい、そんなことはない。 人間関係がこじれたり、組織の目的と活動内容のズレがあったり、 さまざまな問題が内在するのが組織だ。 

 「だから僕たちは、組織を変えていける」(斉藤徹・著)は、 現代において、どのような「組織」の在り方が求められているか。
 組織を引っ張っていくリーダーは、どのようなことを重視していけばいいのか。 などをまとめた1冊だ。 

 過去の研究などで示された概念やキーワードの紹介が多いので、 この本にざっと目を通して、気になったキーワードを拾っておき、 次に、そのキーワードについて書かれた本を読みこんでいくのがよさそうだ。  組織やリーダーの在り方について学びたい人のためのガイド本、入門書として位置づけられるかもしれない。 

 私が、この本の中で一番気になったのは、組織に所属する人の「関係」について書かれた章だ。 
 特に、成功は、組織に所属する「メンバー」ではなく、「場の状態」で決まる という項で記載されている「心理的安全性」は、今、とても注目されているキーワードの一つだと思う。
 他の人の評価を気にすることなく、自分の意見や考えを言えるような(心理的に安全だと思える)場を つくれているかどうかが、組織の生産性に影響を与えるといわれている。 

 しかし、上司・部下、先輩・後輩、男性・女性などの関係性がある中で、 その関係性を取っ払って、モノを言える場をどう創れるのか。 心理的安全性がある場が創れたらいいなとは思うけれど、 現実的にはなかなか難しいだろうな。と思いながら読んだ。 

 個人的には、 「他人」と「組織」は変えるのは難しいと思っている。 
 変えることができるのは、 自分自身が「他人」や「組織」をどう位置付けるかだろう。 
 理想的な場・関係性を創るために、 まず、自分ができることは何なのかを考え、 日々の振舞いを変えていくことだと思う。
 「どうせ、私が何を言っても変わらない」と不満に思うことが多いかもしれない。
 ただ、本当に嫌なのは、「何も言っても変わらない」という言葉を言い訳にして 何もしないで諦めている自分自身かもしれない。
 「変わるかもしれない」という希望を抱いて、 小さなことでも取り組み続けることができれば、 結果としてほとんど何も変わらなかったとしても、 満足できるものかもしれない。

 本当に変えたいのは、組織ではなく、自分自身だという人は、案外、少なくない気がする。 

 https://amzn.to/3K0mwnr

2022年3月23日水曜日

【殺人者の記憶法】自分の記憶が曖昧になることの恐怖

 
 薄暗い森の中、大きなスコップで地面に穴を掘る。
大きな穴に、自分が殺した人間の死体を落して、再び土を被せた。 
 「私は、知りません」。
自分がしたことを知られてはならないと、必死に隠そうとしている。 
 隠し通せるはずはない。嘘をつき続けるのは苦しい。 
 そう思ったところで、パッと目が覚めた。 
 夢だった。 

 なぜ、そんな夢を見たのか、 思い当たることがあった。 
 数日前に見た映画の中で、主人公が殺人を犯して、その死体を森の中に埋めるシーンがあった。 そのシーンが特に気になったわけではなかったが、記憶にこびりついていたらしい。 夢の中で、私自身がその主人公とすり替わってしまった。

 目が覚めて安心はしたが、 夢の中で味わった、罪が暴かれることへの恐怖、プレッシャーを思い返し、 しばらくの間、気持ちが重かった。 

 小説「殺人者の記憶法」(キム・ヨンハ著、吉川凪・訳)は、アルツハイマー型認知症と診断された男の独白で構成されている。 

 男は、猟奇的な連続殺人を犯してきたものの、警察に捕まらず、今まで生きてきた。 
 認知症により、男の記憶が曖昧になっていく中、 男が語る「事実」と、 男に関わる人々が口にする「事実」とが交錯し、 物語の終盤に向かって、その乖離が示されていく。
 客観的な事実が明らかにされていくのだが、 男の頭の中にある「事実」のほうを信じるように、 読者は巧みに誘導されているのかもしれない。

 男の語る「事実」のほうが、事実であるような気がして、 周囲が説明する「事実」とのズレが奇妙に思えてきた。  私は、作者の仕掛けに、まんまと嵌まった読者になったのだろう。 

 読後に思い出したのが、自分が経験した夢のことだ。 
 もしも、あの夢を夢だと思えなかったら? 
 想像を超える恐怖、不安に襲われそうだ。 
 自分の人生、生活は、自分の記憶を基盤に成り立っているのかもしれない。

 さらっと読めるが、深いテーマに触れている作品だった。 

Amazon「殺人者の記憶法」
 https://amzn.to/3tuz7JA

2022年3月18日金曜日

【ニワトリと卵と、息子の思春期】子どもにとって、親は最大の権力者

親というのは庇護してくれる存在であるが、子どもにとっては最大の権力者。子どもは非力だ。

子どもの多くが、このことを知っているし、感覚的に分かっているものだろう。しかし、子どもから大人になって、さらに結婚や出産して、親になってから、このことにどれほど自覚的にいられるだろうか。

「ニワトリと卵と、息子の思春期」を読んで、まず、興味を魅かれたのは上記の「権力者」に関する指摘だった。

「オレに何が必要か、お母さんには分からない」

この本の著者・繁延あづささんは、ある時、長男からこう言われた。
母親であっても、息子のことで分からないことがある。

長男の指摘は、ある意味、正しい。だから、胸に刺さる。
一方で、長男が必要だという物事をすべて認めることも難しい。未成年の場合、親は、自分の子に何が必要か否か判断する役割を担っている。その役割を放棄するわけにもいかないだろう。
ある意味で正しい、けれど、それを正しいと認めてしまうわけにもいかない。
そんな時、多くの親は「親の言うことを聞きなさい」という態度をとり、親という立場に伴う権力を使ってしまうのかもしれない。


著者の繁延さんは、フォトグラファーとして妊婦の出産などを撮影されている。夫と、息子2人娘1人の5人家族。3人の子どもの母親だ。

このエッセイは、思春期に差し掛かった長男が、「ゲームを買うのをやめるから、ニワトリを飼わせて」と言ったことが起点となっている。

実際に、家族でニワトリを飼い始め、その後の経過を追っていく中で、著者の気づきが盛り込まれている。

母親として息子・娘と接する中で感じたこと。考えたこと。

ニワトリという生き物の命に触れて感じたこと。考えたこと。

東京・中野から東日本大震災を機に長崎に移住し、猟師から分けてもらった猪やキジの肉を食べている。

そんな繁延一家は、食べること、生きること、育てること、死ぬこと、これらが繋がっていることなどを実感しながら生活されている。

こうした生活のスタイルは特殊だろうが、
子どもたちの様子や言動を受けとめて、母親として、どう感じたか。
特に、著者が息子との口論で感情的になった時の自分自身を振り返っている点などは、読み応えがあった。

子育て、教育など、子どもに向き合っている方に、特にお勧めしたい1冊。

2022年2月28日月曜日

「ダメ。ゼッタイ。」だけではダメな理由

 
 アイドルグループの元メンバーが覚せい剤を所持して逮捕されたというニュースがあった。お笑いタレント、アイドル、スポーツ選手などなど、多くの人に知られるような活躍をしている人達が覚せい剤を所持・使用していたことが報道されるたび、「なぜ?」「どうして?」と思う。

見ている人を笑わせたり、歌って踊れたり、応援してくれるファンもたくさんいるような人たちが、なぜ、どうして覚せい剤を所持するようなことになってしまうのか。

メディアを通して伝えられる彼らの姿からは想像もできないほどの孤独や不安、悩みなどを抱えていたのだろうか。
芸能人やプロスポーツ選手には、違法な薬物を売る人達が接触しやすいルートのようなものがあるのだろうか、と考えたりする。

社会を楽しくする障害者メディア季刊誌「コトノネ」41号の中で、特に注目して読んだのは、ぶっちゃけインタビュー 精神科医の松本俊彦さんの「救いの依存症と救いからの脱皮」だった。

松本氏は、国立精神・神経医療研究センターの精神保健研究所薬物依存研究部部長で、薬物依存症の方の治療などに携わられている。

 このインタビューで指摘されているのは、薬物乱用防止キャンペーンの「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンを掲げるだけでは、ダメということだ。

「違法薬物」を使わないように啓発し、使ってしまった人を取り締まるだけでは、解決できない問題が残されている。 

 覚せい剤だけでなく、ドラッグストアなどで購入できる市販薬についても、若者がそれを使用して依存症になり、オーバードーズで死亡するケースもあるという指摘があった。彼らが市販薬を使用し、依存するまでになってしまう背景、彼らが置かれている環境や抱えているものに目を向けなければ、問題は解決できない。仮に市販薬が購入できなくなったら、彼らは別のものに依存することで自らを救おうとするのかもしれない。 

 本誌の読みどころは他にもいくつかあるが、もう一つ、私が特にお勧めしたいのは、野々村光子さんの連載エッセイ「『私のセンパイ』~優しき労働者~」だ。 

 福祉関係のお仕事をされている方で、心が優しく、真面目で、一生懸命な方ほど、このエッセイに登場する「センパイ」のように、その優しさゆえに潰れてしまうことがあるんじゃないかと思う。

優しき労働者は、一個人で引き受けられることと、そうでないことの線引きが難しく、苦しさや辛さを抱えていても誰かのために頑張ってしまいがちかもしれない。

優しき労働者が、無理なく働き続けられるようにするには、何が必要なのだろう?。
そんなことを、考えさせられた。

 アマゾン「コトノネ」vol 41
https://amzn.to/3vrhlIy

2022年2月23日水曜日

【夏への扉】猫って、自分のこと人間て思っているよね

 

 在宅オンラインでミーティングをしていると、パソコンの画面に映っている相手の顔の前を、右から左へ茶色い毛並みの動物が通り過ぎた。

 猫だ。 

 似たような出来事は、他の相手とのオンラインミーティングでもあった。 飼い主がパソコンの画面越しに誰かと話をしていると、その間に割って入ってくる。 
 それが猫という動物の習性なのか、自宅で飼われているとそういう態度を身に着けてしまいがちなのかは、分からない。 

 猫をペットとして飼っている人からよく聞くのは、「あのこ、自分のこと人間だと思っているから」というものだ。 
 「家族の中で、自分が一番偉いと思っている」とか、「誰が遊んでくれるとか、餌をくれるとか、自分に都合がいい人を分かってて、相手によって態度を変えている」という人もいる。 

 犬は、きちんと躾られると、飼い主の言うことをきちんと聞いて、それを守って行動する。 「お座り」と言われたら、じっと座っているのが犬だ。 
 それに対して、猫は、気ままに行動する。飼い主から「お座り」と言われても、そのままじっとしていないのが猫らしい。 

 猫が自分のことを「人間」と思っているかどうかは確認できないが、猫は自分の気持ちの赴くまま行動する傾向があるのかもしれない。

 猫が登場する本として思い浮かべるのは SF小説「夏への扉」だ。 

 主人公の相棒として登場する、猫のピート。 ピートの好みやあくびや髭の様子などの描写を読んでいると、 猫の様子をよく観察している人が書いたものだと思う。
 猫好きな人、ペットとして飼っている人が読むと、 ああ、そうそう、こういうところあると思う猫のツボを捉えていると思うのかもしれない。 

 物語は、いわゆる「タイムトラベル」もので、30年の時を進み、戻りする。 
 学生の頃、おそらく20年近く前に、猫好きの友人に勧められて読んだ記憶があるが、
 今、改めて読んでも古い印象はなく、面白かった。

猫好きな方に、お勧めの1冊
「夏への扉」
 https://amzn.to/3hcX0OV

2022年2月17日木曜日

【牧師、閉鎖病棟へ入る。】「男の人も、大変なんだな」と思った、その理由

 
 「牧師、閉鎖病棟に入る。」(沼田和也・著、実業之日本社)を読んでいて、 コーチングをしている時によく感じていたことを思い出した。
 それは、「男の人も、大変なんだなぁ」ということだ。 

男女の性別で分けて物事を考えるのは偏見になるかもしれないのだが、 私が「大変なんだなぁ」と思ったのは、 
「自分のことを誰かに話す機会が少ないのかもしれない」
「話せる相手がいないのかもしれない」と感じたことだ。

 私がコーチングを提供したクライアントさんの中で そう感じたのは女性より、男性のクライアントさんの場合が圧倒的に多かった。 
なぜ、そうなのか? 
本書を読んでいて、理由が少し見えてきた。 

 著者は、キリスト教の牧師であり、幼稚園の理事長を務めていた。 
しかし、ある時、同僚にキレてしまう。
妻の言葉もあり、精神科の閉鎖病棟に入ることにした。 

本書では、主治医とのやりとりや、閉鎖病棟で出会った人、観たこと、感じたことを綴っている。
 精神的に追い詰められてしまった自分を振り返り、 なぜ、そうなってしまったのかを考えている 。

わたしを含めた男性の多くは、自分の弱さを自覚することや、助けを必要とするほど追い詰められていると認めることが、非常に難しい。男らしさとか、男が泣くものではないとか。世代によっては「女々しい」という言葉と共に、泣き言を言うことを恥として叩きこまれてきた。だから自分の弱さを隠す鎧として、学歴や仕事など、積み重ねてきたものへの自負を強調しなくてはならない。 「先生」と呼ばれている者は、その呼び名から降りることはときに恐怖でさえある。男らしさを内面化してしまった男性は―わたしもそうであったが、―そもそも自分が死にたい、ああ死ぬなと思うほどに追い詰められるまで、自分が苦しいということすら自覚できない。 歯を食いしばって耐 えてしまうのである。 涙を流せばすっきりするのだが、そもそも泣き方が分からない。泣かないのではなく、泣けないのである。(本書・終章:こだわるのでもなく、卑下するのでもなく より)

 自分が抱えているものについて誰かと話をする中で、 自分の考えや思いに気が付くことがある。 誰かに話を聞いてもらうだけで、気持ちが楽になることがある。 

そういう機会が少なかったり、ほとんど持てない場合には、 頭も心もいっぱいいっぱいになってしまうのではないか。 それはとても苦しく、大変な状態に違いない。

 コーチングは、カウンセリングとは異なるので、 心の病には対応できない。 

 しかし、コーチである私と「対話」することが、 自分のことを話す、聞いてもらう経験になっているとしたら それはそれで価値を提供できているかもしれない。 そうだったらいいな、と思う。

2022年2月13日日曜日

【思いがけず利他】与えるだけではなく、受け取ることで起動する「利他」

道に迷っている人を案内する

電車内でお年寄りに席を譲る

大雨で浸水した家に、泥をかきにいく

被災地の復興支援のための寄付をする

 

「利他」という言葉で、

頭に思い浮かべるのは、そんな行動だ。

 

「利他」は、「利己」の反対。

利他的な行動は、自分の利益ではなく、

自分以外の誰か、他人の利益のために行動することを指す。

つまり、誰かに「与える」ことが前提になる行動だと思っていた。

 

「おもいがけず利他」(中島岳志・著、ミシマ社)を読んで、

最も新鮮だったのは、

「利他」とは「与える」だけではなく、「受け取る」ことで発動するという指摘だ。

 

私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。

私たちは与えることで利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。

利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちはそのことに気づいていません。

しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。

私たちは、ここで発信されていたものを受信します。その時こそ、利他が起動する瞬間です。

 

著者は、中学生の時の先生の言葉、行為を例に挙げている。

中学生の頃は、それほど深く考えておらず、先生の言葉や行為について「ありがたさ」を感じていたわけではないという。

しかし、大人になり、現在の自分の仕事の礎は、中学生の時の先生の言葉や行為によって築かれたと気がついた。

著者が、先生の言葉や行為の「ありたがさ」に気づいた時に初めて、

先生は、著者にとって利他の主体として認識された。

 

つまり、誰かの言葉・行為を「受け取る」ことが前提となる

「利他」もある。

 

誰かが自分に向けて発した言葉

誰かが自分のためにしてくれた行為に目を向け、

その「ありがたさ」を受け取ることも価値があるということだ。

 

どんな立場の人でも、人生を振り返ると、

今の自分にとって財産となっているような

「あのときの一言」「あのときの行為」はあるのではないか。

 

それらに気がついて「利他」を発動させると、その主体となった誰かと自分の繋がりがこれまで以上に深く感じられる気がする。

そして、その気づきはまた、これからの人生を支えるものにもなりそうだ。