2023年1月29日日曜日

【ワンダーボーイ】作家の「読書の仕方」、作品の舞台となる時代・社会の描き方について学びが多かった1冊


小説「ワンダーボーイ」(キム・ヨンス著、きむ・ふな訳、クオン)は、15歳の少年キム・ジョンフンがさまざまな人と出会い、成長していく物語だ。

ジョンフンには、母親についてはっきりした記憶がない。唯一の家族だった父親が交通事故で死んでしまい、絶望している。しかし、父を亡くした交通事故をきっかけにジョンフン自身は他人の心が読める能力を持ったため、それを軍部の人間に利用されてテレビ出演させられ、「ワンダー・ボーイ」として注目される。

 軍部の人間のもとから逃げだしたものの、当初のジョンフンは、「自分とは何者なのか」「自分は、何を支えに、どう生きていったらいいのか」かが分からず、もやもやしている。

天涯孤独になった少年ほどではないにしても、10代の思春期に、自分が何を求めているのかが分からず持て余したり、漠然とした将来に思い悩んだ経験がある人は少なくないだろう。ジョンフンの心のもやもやは、読者それぞれの思春期を思い出させるかもしれない。

なんともいえない、もやもや感の描き方が魅力的だ。

また、私は、のちに父親代わりの存在となるジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話すセリフに魅かれた。

 ジェジェン氏は出版社を経営しており、朝鮮戦争の遺族の苦しみを記録した書籍を出したのだが、政府により出版社登録の取り消し処分を受けてしまう。軍部から逃れた後、その出版社の事務所を住まいにしていたジョンフンは、自分の寝床を別に探さなければならなくなる。そうした出来事が起きた後で、ジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話す場面がある。 

「本を持っているなら、まずは、その本を触ってみるんだ。くんくん匂いをかいでみたり、ページの耳をちぎってかじってみたり。するとどんな本なのか、少しはピンとくるだろう?次に本を開いて、著者の言葉と目次の内容を読んでみる。ほとんどの本にはカバー表と裏に何か書いてあるが、それを読めばどんな内容なのか九十パーセント察しがつく。次は、本を閉じて想像することだ。その本のテーマについて、自分は何を知っていて、何を知らないのか。もし自分が同じ構成で本を書くとしたら、どんな内容でページを埋めていくのか。そんなことを考えてから本を読むと、自分が知らなかったことが何なのか、よりはっきりするだろう。そういう点で、本を読む一次的な目的は自分が何を知らないのかをはっきり自覚することだ」 (中略)

 

「天才的に読むためには、作家が書かなかった文章を読まなければならない。書いたものを消してしまったとか、最初から書かないと決めて外したとか、そういったことを。そこまで読めたら、ようやく本を読み終えたことになる」

   (本書P265~266より )


 ジェジェン氏の言葉は、著者のキム・ヨンス氏の「読書の仕方」だろう。こうした考えを基に「本を書く」ことに取り組んでいるのだと思い、興味深かった。

 

もう一つ、この作品において無視できないのは、時代と韓国の政治的・社会的背景だろう。

ジョンフンが父を亡くした年は1984年に設定されている。

その年に15歳だった少年が17歳になるまで、つまり1984年から1987年までの間に、韓国でどのような出来事が起こったのか。政治的・社会的な出来事をある程度知ったうえで、この作品を読むと味わいが異なるはずだ。ソウルの街の熱気や、政治的な出来事について語る登場人物たちの言葉の重みの受けとめ方が変わるに違いない。

 

「ワンダーボーイ」を読みはじめる前に、「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子・著、イーストプレス)を読んでいたことは、読書の大きな助けとなった。

「韓国文学の中心になるもの」は、翻訳家の斎藤氏が、日本でもベストセラーなった「82年生まれ、キム・ジヨン」から時代を過去へ遡るかたちで、韓国の政治、社会的な出来事と、作家、主な文学作品の関係性を整理して解説している。作家が何を意識して書いているのか、考える材料を与えてくれる本だと思う。こちらは、これから韓国文学を読んでみたいという人にぜひ、お勧めしたい。


▶「ワンダーボーイ」https://amzn.to/3j8eHnr

▶「韓国文学の中心にあるもの」https://amzn.to/3j6NJN2

2023年1月23日月曜日

【コロナ時代の哲学】独りで居たいけど、誰かに見てほしい

 
 3年前の自分が、どうだったか? 
これまでの人生を振り返って、3年前の自分を問われて、はっきり答えられることは少ないのかもしれない。 

 30歳の時の3年前は、27歳。 20歳の時の3年前は、17歳。高校2年生。 15歳の時の3年前は、中学1年生?…。 

会社の業務で、何を担当していたか。 部活動を一生懸命していたか。 その年に流行していたドラマやファッションを調べれば、 よく見ていたものや購入したものなど、少し具体的に思い出せるかもしれない。 しかし、自分がどんなことを考えていたかということになると、ほとんど忘れてしまっていて、思い出せない。 

 今から3年前、2020年は、多くの人にとって、これまでにない出来事が起こった年だ。 新型コロナウイルス(COVID-19)の国内感染が一気に拡大し、「緊急事態宣言」が出され、働き方も生活の仕方も大幅に変更せざるを得なくなった。 ドラッグストアの店頭で、マスクやハンドソープ、アルコール消毒液が品薄になったことや、 飲食店やスーパーの閉店時間が早くなった。自宅で仕事ができるように部屋を整え、ZOOMなどインターネットのツールも使い始めたことは覚えている。 

 ただ、その激変した生活の中で、自分が、何を、どのように考えていたかはやはり、よく覚えていない。「これから先、一体、どうなってしまうのだろう?」という、先の見えない不安を抱えながら、日々を過ごしていた気がする。

 「コロナ時代の哲学」(大澤真幸、國分功一郎)は、2020年7月、COVID-19の感染が急拡大した中で発刊された。 大澤氏は、前書きの中で、「私たちは、生と死の全体、世界や社会のあり方の根幹に関して、これまで見たことがないものを見ており、感じたことがないことを感じている。こういうとき、私たちはいかに困難でも、まさに感じ、経験していることを言葉にしようと努めなくてはならない」と言っている。 さらに、その理由について、「渦中や直後に言葉にしようと努めなかったときには、それはすっかり忘れさられ、結局、私たちのうちにいかなる有意味な変化をも惹き起こさない」からだとしている。 社会の大きな変動に直面している「今」を、それぞれが、それぞれの言葉で語ることで、「今」になんらかの意味が付与される。うまく言い表せていなくても、そのうまく言い表せない感じは残る。意味を付与されたことは、記録や記憶に残り、後から改めて考えてみることができるだろう。 本書に掲載されている大澤氏の論文、國分氏との対談を読むと、彼らが、「今、言えること」「今、語れること」を精一杯、言葉に表している雰囲気が伝わってきた。 

 私が、この本の中で最も関心を持ったのは「監視」だ。

 大澤氏の論文の中で、「監視資本主義」が紹介されている。 これは、ショシャナ・ズボフが創った概念で、古典的な資本主義では、賃労働から剰余価値が発生するが、監視資本主義はインターネット上で個人が買い物や検索をすることによって、個人情報が資本に明け渡され、剰余価値が発生する。監視資本の代表企業はFacebookやGoogleなどで、個人情報から利益を得ている。 そして、重要なポイントは、FacebookやGoogleなどのサービスを利用している時、個人は客観的な自由のはく奪(個人情報が提供されている)があるにも関わらず、そのことを意識することはほとんどなく、主観的には自由に行動していると感じている点だという。 

 デイヴィッド・ライアンの「監視文化」についても紹介されている。 
現代人は、「監視」を必ずしも拒否しておらず、むしろ望んでもいる。例えば、SNSなどで投稿し、私生活を他人に覗かれることを楽しんでいる。誰からも見られてないことを恐れ、不安に感じてもいるという指摘だ。 「監視」という言葉は、自分の言動を細かくチェックされているイメージがあり、気持ちがよいものではない。積極的に「監視してほしい」と思っている人は多くないだろう。一方で、SNSへの投稿は、自分以外の誰かに「見てほしい」という思ってするもので、これは文化の一つといえそうだ。

 自由、気ままに生活をしたいなら、「おひとりさま」の生活スタイルを選択すればいい。 
他人と深く関わりたいわけではないけれど、自分の存在を誰にも知られないのも不安なのかもしれない。 
「おひとりさま」の暮らしをしながら、食べたものや身に着けたもの、出かけた場所などの写真を撮ってインスタにアップするのは、「ひとりで居たい」けど、「誰かに見てほしい」のだと思う。 

 「誰かに見てほしい」のだけれど、見てほしいのは本当の自分自身でもないだろう。
SNSへの投稿は、誰かに見せる、よそいきの「私」だ。 俳優やモデルではない、一般の人が誰かに見せるための「私」をつくる文化が普及した結果なのかもしれない。
この「監視文化」の今後は、興味深い。 

2023年1月3日火曜日

【2023年の幸福論】「幸せ」って、何?

「それでは、よいお年を!」 
年末に届いたメールに添えられていた一言に目がとまり、考えた。
 「よい年」って、一体、どんな年だろう? 新型コロナウイルス感染症の問題が終息すること? ロシア・ウクライナの戦争や、そのほか世界のどこかで起きている人権侵害や弾圧などの問題が解決すること? 「そうあってほしい」と願うけれど、問題が大きすぎて、私個人にできることはささやかなことにすぎないという気がする。
 「よい年」という言葉から沸いてくるイメージからは遠い。

 日常生活のほうへ目を向けて、「よい年」を考えてみると、 仕事やそのほかの取り組みが上手くいったり 両親や親せき、友人たちが健康に過ごしていて、 趣味や旅行を楽しむ機会があれば、 一年を振り返って、「今年もよい年だったな」と思える気がする。 

 「よい年」は、少し意味を広げて考えると「幸せ」ってことかな? と考え始めた頃、月刊誌「すばる」(2023年1月号)の特集テーマが「2023年の幸福論」と知り、手にとった。 

 この特集では、複数の著者が「幸福」について、様々な角度から論考やエッセイなどを執筆している。 そのなかの一つ、論考「幸せはどこからどこへ向かうのか」(山本貴光・著)では、 「幸福論」といえば引き合いにだされる3人の哲学者、 スイスの法学者・哲学者カール・ヒルティ、 フランスの哲学者アラン、 イギリスの哲学者・論理学者バートランド・ラッセル を取り上げて、紹介している。
さて、いずれの幸福論も、人間とはどのような存在かという観察と考察を示している。 そうした事の次第からして、その全体を要約することはほとんど意味がないくらいだ。 無理を承知で言えば、ヒルティは思い込みや偏見を捨てること、日々の感情や出来事に重きを置かないこと、仕事を典型とする活動に幸福を求めること、などを幸福の条件としている。 同様にアランは、多様なプロポを通じて、概ね二つのことを述べている。 幸福とは自分でなにかを欲したり、つくったりするものだということ。一時的な体の出来事や偶発的なことにこだわりすぎるのが不幸の原因だということ。 (中略) ラッセルは、彼の主張をこれまた無理やりまとめるなら、自分に没入しすぎるのは不幸のもとであり、自分以外の外界に広く興味を向けて、さまざまな人や物と友好的な関係を結ぶことが幸福の秘訣であるとなろうか。
著者は、これら3人の幸福論を踏まえて、いずれも「自分の状態や感情に注意を向けすぎるのは不幸の源」としている点に注目し、「注意をどこに向けるかという共通点がある」と指摘していた。

 メールに添えられていた「よいお年を!」の一言から、「よい年とは?」と自問し始めた私は、まさに自分自身の状態に注意が向いていた。 

「仕事が上手くいく」「自分や家族、周囲の人々が健康でいる」「趣味や旅行を楽しむ」など、 「こうなったらよい」と思うイメージを膨らませていた。 
「こうなったらよい」というイメージを持つことは、今後の目標を明確にし、その実現に向けて努力することもできるから、必ずしも悪いことではないだろう。

 しかし、山本さんの論考を読みながら、 「こうなったらよい」だという状態を強く思いすぎているのは、 危険な側面もあることに気が付いた。 例えば、「こうなったらよい」と強く思い描いていたことが実現しなかった時には、 喪失感を味わうことになるかもしれない。 「なぜ、そうならなかったのか」と原因を考え、その原因を他者のせいにして非難したり、個人の力ではどうしようもない環境に不満を募らせたりすることもありそうだ。 マイナスの感情に囚われて、毎日、もんもんと過ごしていくかもしれない。そういう状態は心地よいものではなく、「幸せ」と思えない気がする。

 一方で、「不幸せ」について考えてみると、こちらは「幸せ」以上によく分からない。
 これまの人生の中で、「辛い」「苦しい」「悲しい」「悔しい」と思った経験はあるが、だからといって「不幸せ」と考えたことはなかった。 

 月刊誌「すばる」の特集の執筆者の多くが、指摘していることだが、 「幸せ」とは、何か。 は、簡単にまとめるができない。

 「幸せ」とは、 それが何かが分からないまま日々を過ごしていて、 「よいお年を!」なんて言われた時に、 ふと、立ち止まって考えてみるものなのだろう。