2022年6月28日火曜日

【言葉の温度】「友達以上、恋人未満」と「知り合い以上、友達未満」

 

 「よく言われる サム(somethingを略した造語で、友達以上、恋人未満を意味する)というのは、愛に対する " 確信”と”疑い”の間の戦いさ。確信と疑いは、潮の満ち引きのように入れ替わるものだ。 

そうして疑いの濃度が薄まって確信だけが残ると、そこで初めて愛が始まるんじゃないだろうか」


 上記は、韓国の作家 イ・ギジュさんのエッセイの翻訳本「言葉の品格」の中で、著者が、哲学書を出している出版社の社長さんから聞いた話として紹介されている一節だ。

この一節は、恋愛ドラマ「ボーイフレンド」で登場人物のセリフに使われたこともあり、

よく知られているようだ。

気になる異性について、ただの友達だと考えると何か違う気がするが、一方で、恋人にしたい人かと考えると、それもしっくりしない状態、「友達以上、恋人未満」の状態を、どう表現したら適切か?

「確信と疑いの戦い」という表現を読んで、なるほど、そうかもしれないと思った。

恋愛の可能性がある異性とのはっきりしない関係には、「友達以上、恋人未満」があるが、

もう少し対象者を広げて、はっきりしない相手との距離感を考えると、「知り合い以上、友達未満」がある気がする。この「知り合い以上、友達未満」の関係については、大学生の頃、男子同級生と意見が合わなかったことを思い出す。何がきっかけだったのかは忘れたが、大学の同級生が「友達の数は減らせる」と口にしたことが妙に心に引っかかった。

「互いに気が合う」とか「一緒にいて楽しい」などが前提になって、人と人は「友達」の関係になる。大学の専攻が同じとか、趣味が同じ、サークルが同じなどで、互いに存在を知っている「知り合い」はできても、「ただの知り合いの一人」から「友達」になるには、互いに距離感が縮まるような何かを共有しているはずだ。人数をカウントして、増やしたり、減らしたりをコントロールできるかのような考え方が、当時の私には、しっくりこなかった。

今、振り返ると彼が言おうとしていたことが少し理解できる。

例えば、SNSのFacebookの「友達」を考えると、どこかで1回お会いして「友達」になったものの、それ以降、お会いすることがなく、SNS上でも特にやりとりすることもなく、そのままになっている人がいる。大学生の時の私なら、それは「友達」ではなく「知り合い」と位置付けるような関係だが、Facebook上は「友達」だ。Facebook上の「友達」の数は、アカウントの保有者の意思で、減らすことができる。

ただ、SNS上であっても、リアルであっても「知り合い」と「友達」の間の関係性は残る。

「友達以上、恋人未満」の状態を、「確信と疑いの間の戦い」と表現するなら、

「知り合い以上、友達未満」の状態は、どのように表現したらいいだろう?

「共感や共有と、非共感・非共有の間の戦い」だろうか?

「知り合い以上」の場合、関係の方向性が「友達」ではない場合もあるだろう。

私の場合、パラスポーツの情報発信で関わるライターやカメラマンさんは、「恋人」でも「友達」でも「知り合い」でもなく、志を同じくする「仲間」、「同志」のような関係と言ったほうが適切な気がする。

自分にとって「知り合い以上」の相手との関係性が、その後、どのような方向性に進むのか。「友達」に向かうのか、「同志」なのか。それとも人生で教えを乞う「恩師」か。

「知り合い以上、友達未満・同志未満・恩師未満…」の関係で、心の中で、潮の満ち引きのように入れ替わるものは何だろうか?

Amazon「言葉の温度」 

2022年6月19日日曜日

【世界を手で見る、耳で見る】その一言に、潜んでいるものは?

 「申し訳ない」という謝罪の言葉があっても、その言葉を口にした時に相手の表情や、醸し出す雰囲気、それまでの人間関係から考えて、その言葉を口にした相手の心の中に、ほとんど気持ちがないと感じると、腹が立つことがある。

 しかし、その相手と、ある程度の関係を維持しなければならない場合、

 「本当は、申し訳ない気持ちなんて1ミリもないでしょ?」などと、キレることはせず、

 「いえいえ、お気になさらずに」などと、こちらも謝罪を受け入れる振舞いをする。

 逆ギレしたりなどしたら、自分自身が損することを知っているからだ。

 「ありがとう」という感謝の言葉であっても、似たようなことは起こる。

 「申し訳ない」と比べると、「ありがとう」は、言われて不快になる人が少ないだろうから、とりあえず「ありがとう」と言っておくことがある。

 「ありがとう」と口にしておいたほうが「得」だと判断しているからだ。

そんなふうに、「言葉」が含んでいるもの(意味)と、それを口にしている人の心・頭の中にあるもの(考え、気持ち、価値観)は、必ずしも一致していないことがある。

 その不一致が気になって、居心地の悪さもあって、時々考えることは、これまでもあった。

 しかし、堀越喜晴さんの著書「世界を手で見る、耳で見る」を読んで、

 言葉を通して、人の心・頭の中にあるものが表れていること。

 言葉と、考えや気持ち、価値観が一致している場合に、もっと目を向ける必要を感じた。

 一致しているからこそ、浮き彫りになる問題がある。

著者は2歳半までに網膜芽細胞腫(目のがんの一種)で両眼を摘出している。

「目でみない族」の人だ。

 例えば、目で見る族が、目で見ない族の人に、「普通の名刺しかなくて、すみません」

 と言う場合。

特に、ひっかかりを感じないで過ぎてしまう人もいるかもしれない。しかし、立ち止まって、「普通」とは、何か? と考えてみる。

 私自身が、名刺を受け取る立場になったとして、

「あなたに渡すための「普通じゃない」名刺は、持ち合わせていなくて、すみません」

と言われたとしたら、どうだろう。「あぁ、私は、普通じゃないのね」と改めて思わされる気がする。言われ続けたら、慣れっこになり、ああ、またかと思うようになるかもしれない。ただ、慣れてしまえば、それでいいという問題でないと思う。

心の奥底でふつふつと、「普通じゃない」と言われることに抵抗したい気持ちが燃え続けていくような気もする。

目で見る族の私自身を振り返ると、自分が何気なく放った言葉にも、無意識のうちに潜んでいる偏見や差別がある気がする。気が付かないまま通り過ぎてきたことがあると思う。 恐ろしいのは、気がつかないままでいることだ。

改めて、「言葉」と、その基盤にあるものに意識を向けたい。

本書には、著者が大学で授業をする中で出会った出来事や、大学生の様子などから、感じたことや考えたことをテーマにしたものも数多く、収められている。最近の学生の態度や言葉に現れているものは、彼らを取り巻く環境や社会を反映していると思うと、希望を持っていいところと、不安に思えるところもある。

また、著者の息子さんは、2021年夏の東京パラリンピック・マラソンで銅メダルを獲得した堀越信司選手だ。

著者が患った網膜芽細胞腫は遺伝性が高く、息子の信司さんは生後40日で右眼を摘出、左眼はなんとか視力をとどめたという。

 本書の中には、信司さんが、幼い時、自分の目が他の友達と違うことを自覚した時のエピソードも収められている

「その時」というタイトルで綴られている一遍は、読みながら、涙がこぼれた。

 本書は、子育てをされている方、教育に携わっている方に、メディアなど言葉を使う仕事をしている人などに、ぜひ、読んでほしい。

 最近、読んだエッセイ集の中で、特にお勧めの1冊。

Amazon「世界を手で見る、耳で見る 目で見ない族からのメッセージ」

https://amzn.to/3xF4SQR

2022年6月5日日曜日

【赤いモレスキンの女】フジテレビ月9で放送していた、あのドラマを思い出した

 

 「赤いモレスキンの女」を読んで、私の頭の中には、俳優の中井貴一さんが現れた。
 この小説のストーリーと、なんとなく似たようなテレビドラマがあった気がしたからだ。

 恋の落ちる(と思われる)男女が出会うまでを描いていて、 仕事や家族に関わるさまざまな出来事が起こって、主人公の男女2人はすぐには出会わない。 
 出会わないのだけど、互いに見知らぬ2人の距離が少しずつ近くなっているのは、 読者・視聴者は読んで・見ていて、分かる。そんなストーリーだ。

 「赤いモレスキンの女」は、主人公の男性が、赤いモレスキンの手帳が入ったハンドバックを拾うことから 物語が展開する。 
 手帳に書かれていた言葉を読んで、持ち主の女性のことが気になりだす。 顔も、名前も分からないが、鞄に入っていたものを手掛かりに、持ち主を探し始める。 

主人公の男性は脱サラをして、書店を営んでいる。
離婚した妻との間に娘がおり、時々、会っている。
つきあっている彼女との関係がなんとなく上手くいっていない
そのようなことなどを描きながら、 鞄の持ち主の女性を見つける手がかりが現れてくる。

 こういう展開の場合、 読者は、「この2人は、出会う」「この2人は、恋に落ちる」と概ね分かっているので、 その分かっている結末までの道のりを、いかに楽しませるか。がポイントだろう。 
2人が出会って、恋に落ちることに納得がいくように、 登場人物の背景や周囲の人物との関係性を描き、 2人の距離が縮まるような出来事を入れていくのだ。 

 ネタばれになるとつまらないので、詳細を紹介するのは避けたいが、 「赤いモレスキンの女」は、フランス・パリを舞台に、洗練された大人の男女の雰囲気が醸し出される。 
 主人公の男性の一人娘も、しっかりと自分の意思を持ち、自立していて、かっこよく描かれている。 

 ちょっとロマンティックな気分に浸りたくなった人に、お勧めの1冊だ。 

 この本を読んで、私が思い出したドラマは、1995年のフジテレビの月9「まだ恋は始まらない」だった。 
 主演は、中井貴一さんと小泉今日子さん。 
 ストーリーの詳細は覚えていないのだけど、 恋に落ちるはずの2人がなかなか出会わない設定や展開について、「おしゃれだなぁ」と思っていたことは 覚えている。

 調べてみると、脚本家は岡田恵和さん(NHK朝ドラ「ちゅらさん」「ひよっこ」など)だった。 90年代のテレビドラマだけど、今見ても古くない気がする。 
 「赤いモレスキンの女」を読んで、「まだ恋は始まらない」を改めて観たくなった。
 
 アマゾン「赤いモレスキンの女」 https://amzn.to/3GSJtrH