2022年2月28日月曜日

「ダメ。ゼッタイ。」だけではダメな理由

 
 アイドルグループの元メンバーが覚せい剤を所持して逮捕されたというニュースがあった。お笑いタレント、アイドル、スポーツ選手などなど、多くの人に知られるような活躍をしている人達が覚せい剤を所持・使用していたことが報道されるたび、「なぜ?」「どうして?」と思う。

見ている人を笑わせたり、歌って踊れたり、応援してくれるファンもたくさんいるような人たちが、なぜ、どうして覚せい剤を所持するようなことになってしまうのか。

メディアを通して伝えられる彼らの姿からは想像もできないほどの孤独や不安、悩みなどを抱えていたのだろうか。
芸能人やプロスポーツ選手には、違法な薬物を売る人達が接触しやすいルートのようなものがあるのだろうか、と考えたりする。

社会を楽しくする障害者メディア季刊誌「コトノネ」41号の中で、特に注目して読んだのは、ぶっちゃけインタビュー 精神科医の松本俊彦さんの「救いの依存症と救いからの脱皮」だった。

松本氏は、国立精神・神経医療研究センターの精神保健研究所薬物依存研究部部長で、薬物依存症の方の治療などに携わられている。

 このインタビューで指摘されているのは、薬物乱用防止キャンペーンの「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンを掲げるだけでは、ダメということだ。

「違法薬物」を使わないように啓発し、使ってしまった人を取り締まるだけでは、解決できない問題が残されている。 

 覚せい剤だけでなく、ドラッグストアなどで購入できる市販薬についても、若者がそれを使用して依存症になり、オーバードーズで死亡するケースもあるという指摘があった。彼らが市販薬を使用し、依存するまでになってしまう背景、彼らが置かれている環境や抱えているものに目を向けなければ、問題は解決できない。仮に市販薬が購入できなくなったら、彼らは別のものに依存することで自らを救おうとするのかもしれない。 

 本誌の読みどころは他にもいくつかあるが、もう一つ、私が特にお勧めしたいのは、野々村光子さんの連載エッセイ「『私のセンパイ』~優しき労働者~」だ。 

 福祉関係のお仕事をされている方で、心が優しく、真面目で、一生懸命な方ほど、このエッセイに登場する「センパイ」のように、その優しさゆえに潰れてしまうことがあるんじゃないかと思う。

優しき労働者は、一個人で引き受けられることと、そうでないことの線引きが難しく、苦しさや辛さを抱えていても誰かのために頑張ってしまいがちかもしれない。

優しき労働者が、無理なく働き続けられるようにするには、何が必要なのだろう?。
そんなことを、考えさせられた。

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2022年2月23日水曜日

【夏への扉】猫って、自分のこと人間て思っているよね

 

 在宅オンラインでミーティングをしていると、パソコンの画面に映っている相手の顔の前を、右から左へ茶色い毛並みの動物が通り過ぎた。

 猫だ。 

 似たような出来事は、他の相手とのオンラインミーティングでもあった。 飼い主がパソコンの画面越しに誰かと話をしていると、その間に割って入ってくる。 
 それが猫という動物の習性なのか、自宅で飼われているとそういう態度を身に着けてしまいがちなのかは、分からない。 

 猫をペットとして飼っている人からよく聞くのは、「あのこ、自分のこと人間だと思っているから」というものだ。 
 「家族の中で、自分が一番偉いと思っている」とか、「誰が遊んでくれるとか、餌をくれるとか、自分に都合がいい人を分かってて、相手によって態度を変えている」という人もいる。 

 犬は、きちんと躾られると、飼い主の言うことをきちんと聞いて、それを守って行動する。 「お座り」と言われたら、じっと座っているのが犬だ。 
 それに対して、猫は、気ままに行動する。飼い主から「お座り」と言われても、そのままじっとしていないのが猫らしい。 

 猫が自分のことを「人間」と思っているかどうかは確認できないが、猫は自分の気持ちの赴くまま行動する傾向があるのかもしれない。

 猫が登場する本として思い浮かべるのは SF小説「夏への扉」だ。 

 主人公の相棒として登場する、猫のピート。 ピートの好みやあくびや髭の様子などの描写を読んでいると、 猫の様子をよく観察している人が書いたものだと思う。
 猫好きな人、ペットとして飼っている人が読むと、 ああ、そうそう、こういうところあると思う猫のツボを捉えていると思うのかもしれない。 

 物語は、いわゆる「タイムトラベル」もので、30年の時を進み、戻りする。 
 学生の頃、おそらく20年近く前に、猫好きの友人に勧められて読んだ記憶があるが、
 今、改めて読んでも古い印象はなく、面白かった。

猫好きな方に、お勧めの1冊
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2022年2月17日木曜日

【牧師、閉鎖病棟へ入る。】「男の人も、大変なんだな」と思った、その理由

 
 「牧師、閉鎖病棟に入る。」(沼田和也・著、実業之日本社)を読んでいて、 コーチングをしている時によく感じていたことを思い出した。
 それは、「男の人も、大変なんだなぁ」ということだ。 

男女の性別で分けて物事を考えるのは偏見になるかもしれないのだが、 私が「大変なんだなぁ」と思ったのは、 
「自分のことを誰かに話す機会が少ないのかもしれない」
「話せる相手がいないのかもしれない」と感じたことだ。

 私がコーチングを提供したクライアントさんの中で そう感じたのは女性より、男性のクライアントさんの場合が圧倒的に多かった。 
なぜ、そうなのか? 
本書を読んでいて、理由が少し見えてきた。 

 著者は、キリスト教の牧師であり、幼稚園の理事長を務めていた。 
しかし、ある時、同僚にキレてしまう。
妻の言葉もあり、精神科の閉鎖病棟に入ることにした。 

本書では、主治医とのやりとりや、閉鎖病棟で出会った人、観たこと、感じたことを綴っている。
 精神的に追い詰められてしまった自分を振り返り、 なぜ、そうなってしまったのかを考えている 。

わたしを含めた男性の多くは、自分の弱さを自覚することや、助けを必要とするほど追い詰められていると認めることが、非常に難しい。男らしさとか、男が泣くものではないとか。世代によっては「女々しい」という言葉と共に、泣き言を言うことを恥として叩きこまれてきた。だから自分の弱さを隠す鎧として、学歴や仕事など、積み重ねてきたものへの自負を強調しなくてはならない。 「先生」と呼ばれている者は、その呼び名から降りることはときに恐怖でさえある。男らしさを内面化してしまった男性は―わたしもそうであったが、―そもそも自分が死にたい、ああ死ぬなと思うほどに追い詰められるまで、自分が苦しいということすら自覚できない。 歯を食いしばって耐 えてしまうのである。 涙を流せばすっきりするのだが、そもそも泣き方が分からない。泣かないのではなく、泣けないのである。(本書・終章:こだわるのでもなく、卑下するのでもなく より)

 自分が抱えているものについて誰かと話をする中で、 自分の考えや思いに気が付くことがある。 誰かに話を聞いてもらうだけで、気持ちが楽になることがある。 

そういう機会が少なかったり、ほとんど持てない場合には、 頭も心もいっぱいいっぱいになってしまうのではないか。 それはとても苦しく、大変な状態に違いない。

 コーチングは、カウンセリングとは異なるので、 心の病には対応できない。 

 しかし、コーチである私と「対話」することが、 自分のことを話す、聞いてもらう経験になっているとしたら それはそれで価値を提供できているかもしれない。 そうだったらいいな、と思う。

2022年2月13日日曜日

【思いがけず利他】与えるだけではなく、受け取ることで起動する「利他」

道に迷っている人を案内する

電車内でお年寄りに席を譲る

大雨で浸水した家に、泥をかきにいく

被災地の復興支援のための寄付をする

 

「利他」という言葉で、

頭に思い浮かべるのは、そんな行動だ。

 

「利他」は、「利己」の反対。

利他的な行動は、自分の利益ではなく、

自分以外の誰か、他人の利益のために行動することを指す。

つまり、誰かに「与える」ことが前提になる行動だと思っていた。

 

「おもいがけず利他」(中島岳志・著、ミシマ社)を読んで、

最も新鮮だったのは、

「利他」とは「与える」だけではなく、「受け取る」ことで発動するという指摘だ。

 

私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。

私たちは与えることで利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。

利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちはそのことに気づいていません。

しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。

私たちは、ここで発信されていたものを受信します。その時こそ、利他が起動する瞬間です。

 

著者は、中学生の時の先生の言葉、行為を例に挙げている。

中学生の頃は、それほど深く考えておらず、先生の言葉や行為について「ありがたさ」を感じていたわけではないという。

しかし、大人になり、現在の自分の仕事の礎は、中学生の時の先生の言葉や行為によって築かれたと気がついた。

著者が、先生の言葉や行為の「ありたがさ」に気づいた時に初めて、

先生は、著者にとって利他の主体として認識された。

 

つまり、誰かの言葉・行為を「受け取る」ことが前提となる

「利他」もある。

 

誰かが自分に向けて発した言葉

誰かが自分のためにしてくれた行為に目を向け、

その「ありがたさ」を受け取ることも価値があるということだ。

 

どんな立場の人でも、人生を振り返ると、

今の自分にとって財産となっているような

「あのときの一言」「あのときの行為」はあるのではないか。

 

それらに気がついて「利他」を発動させると、その主体となった誰かと自分の繋がりがこれまで以上に深く感じられる気がする。

そして、その気づきはまた、これからの人生を支えるものにもなりそうだ。


2022年2月7日月曜日

【わたしに無害なひと】一番近い、けれども他人という関係

 

 「お姉ちゃんばかり、ずるい」 

「妹だからといって、甘やかされている」

 姉に対して、 妹に対して、 こんなことを思った経験がある人は、 少なくないのでないか。

 姉妹とは、どのような関係性なのか?と考えると、 

親の前では「同志」のようなものかと思う。 

 家族の中で、同性の子どもという立場なので、 親に対して求めるもの、要求するものが重なる時には、互いに協力する。 

 ただ、一緒に遊んだり、学んだりする時間には、 「同志」というより、一番近くにいる「友達」かもしれない。 同じ家庭で育っているので、価値観など共有しているものが多く、 互いに相手を理解できる部分も多いだろう。

 一方で、姉と妹それぞれ得意・不得意が違い、趣味や嗜好は異なる。 一番近くにいるがゆえに、相手を自分を比べて、 自分と似たところを見つけた時は、 相手が自分を映した鏡のように見えるかもしれない。 

自分と異なるところを見つけた時は、 一番近くにいるけれど、他人の面を見ていると思う。 

 韓国の作家チェ・ウニョンさんの短編集「わたしに無害なひと」に収められている 「過ぎゆく夜」という作品は、 姉と妹が5年ぶりに再会し、 一晩を一緒に過ごす物語だ。 

 母子家庭で、母を早く亡くした姉妹。 

5年前、姉のユンヒは、米国に留学する前の晩、妹のジュヒと喧嘩して別れてしまう。 

ユンヒが留学中、ジュヒは結婚して子どもを産んでいる。 

姉のユンヒはFacebookの投稿を通じて、ジュヒのそうした近況を知っていたが、 喧嘩別れしてしまったことからコメントは残さないままでいた。 

 就職の面接のために米国から韓国に一時帰国することになったユンヒに、 妹のジュヒが自分の家で最後の一晩を過ごすように連絡してくる。 ジュヒは離婚し、子どもは夫の家族が育てており会えなくなっていた。 

 姉と妹、一緒に過ごす一晩に、交わす会話の中から、 互いにどんなふうに思っていたかが浮き彫りになってくる。 

疎遠になっていた2人が、これから先、どうなるのか? 

読者に想像させて、読後に余韻を残す作品だった。 

 姉妹がいる人、姉妹を育てている人に、お勧めの1冊。 

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