2022年5月29日日曜日

【若きアスリートへの手紙―<競技する身体>の哲学】「スポーツには、力がある」と思い込むことの危険性

「スポーツには、力がある」

どこかで聞いたフレーズだ。私自身が、パラスポーツの記事を書いた時、どこかで使ったことがあるかもしれない。

元フィギュアスケート選手の町田樹さんの著書「若きアスリートへの手紙 <競技する身体>の哲学」を読んで、改めて、これらの言葉を使う際には慎重にならなければいけないと反省した。

若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学amzn.to
3,960(2022年05月29日 21:20時点 詳しくはこちら)
Amazon.co.jpで購入する

町田さんは、次のように書いている。

スポーツは、スポーツ以外の何者でもない。そして本人が一番分かっているように、アスリートが競技会で行えることは、やはり競技以外にない。にもかかわらず、己の権内を超えて、「スポーツには力があり、感動を与えられる」と猛進するのは、やはり傲慢かつ危険なことなのではないだろうか。

(本書 P458より)

新型コロナウイルス(SARS-COV-2)の感染拡大により外出自粛が強く求められていた頃、特にワクチン接種が普及するまでの間、「こんな状態でスポーツをしていいのだろうか?」と考えたアスリートは、少なくなかったのではないだろうか。

2021年夏に開催された東京パラリンピックでは、日本代表選手たちのインタビューの中で、
「コロナ禍の中、開催してくださった方に感謝します」
という旨の言葉を数多く耳にした。
SARS-COV-2感染拡大以前、2016年のリオ・パラリンピック、2012年のロンドン・パラリンピックで、そのような言葉を聴いた記憶はない。
「パラリンピックが開催されること」
「パラリンピックで競技ができること」
多くの日本代表選手が、こうしたことの有難さ、価値を実感したのかもしれない。

ただ、彼らの「感謝」の言葉を聞けば聞くほど、私自身は、彼らに対して言葉を返したい気持ちになった。
日本代表選手たちは、コロナ禍の中、トレーニングを続け、パラリンピックでもっとも良いパフォーマンスを発揮するために努力してきたはずだ。自らが感染しないように、日常生活のあらゆる場面で気を使ってきたに違いない。
「アスリートがいるから、パラリンピックができる」
パラリンピックの競技会場に入り、選手たちの姿を写真撮影していたからかもしれないが、私は、彼らに対して「感謝するのは、こちらですよ」と思っていた。

本書の中で、著者の町田さんは、「スポーツは必要か?」と問うことについても、触れている。

アスリートはアスリートとして存在しているのであって、競技をすることに引け目やうしろめたさを感じる必要はない。
アスリートは自分が理想とするパフォーマンスを追求すればそれで十分であり、感動の授与や、世界平和、心の結束、経済効果などのために存在しているのではないからだ。

パラリンピックの取材の中で、日本代表選手が「バリアフリー政策」や「女性の活躍推進」などについて意見を求められている場に出会ったことがあった。
私自身も、「コロナ禍でのパラリンピック開催について、どう思うか?」と選手に尋ねたことがある。
しかし、町田さんの言葉を基に振り返ると、「一個人として。どう思うか?」を尋ねるのか。「アスリートとして、どう思うか?」を尋ねるのか。私自身がまず、整理しておく必要があった気がする。

本書は、町田さんが自身の経験をもとに、若いアスリートたちに伝えておきたいことをまとめた1冊だ。自らの失敗や反省を踏まえたアドバイスがたくさん含まれている。
「スランプ脱出法」「緊張状態の制圧戦略」「基礎とは何か」「ライバルとは」など、競技力向上に向けたものから、引退後のキャリアデザインなどにも触れている。

若手アスリートにはもちろん、アスリートの指導やサポートに携わる人、メディア関係者にもお勧めの1冊だ。

2022年5月24日火曜日

【同志少女よ、敵を撃て】京都で「戦争」といえば、応仁の?

 大学卒業後、生まれ育った静岡県から出て、京都市内で生活を始めた頃、 京都の文化や慣習について、さまざまな「噂」を耳にした。

「京都の祇園のお店では、紹介者がない状態で初めて来たお客さんは入れない。”一見(いちげん)さん、お断り″のお店がある」

「創業100年程度では、たいした歴史ではないと思われている。(もっと長い歴史を持つ企業やお店があるから)」 など、いくつかあるが、

その一つに、「京都で″戦争”といえば、太平洋戦争ではなく、応仁の乱のことを指す」というものがあった。

「戦争」というと、多くの日本人がまず思い浮かべるのが、太平洋戦争だろう。1941年の日本軍による真珠湾攻撃で始まり、1945年に終戦を迎えた戦争だ。

一方、応仁の乱は、室町時代の1467年から1477年の約11年、京都を中心に起きた戦だ。京都が焼け野原になったと言われている。

私が耳にした噂は、京都人は京都が長い歴史を持つことを誇りに思っているため、「戦争といえば太平洋戦争ではなく、応仁の乱」を共通の認識としているというものだった。

噂の真偽は、確かめていない。

ただ、同じ国で生活していても、生まれ育った地域や環境、家族や学校を通して身に着けた思想や価値観などによって、「戦争」と聞いた時に思い浮かべるものが異なる可能性があるのだと考えていた。

小説「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬・著)は、第二次世界大戦中、ドイツとソビエト連邦の間で起きた独ソ戦を舞台にした物語だ。

ドイツ語を学び、ドイツとソ連の架け橋になる外交官を夢見ていた少女は、目の前で母親をドイツ軍に殺される。暮らしていた村の人々も皆、殺された。これを機に、少女はナチス・ドイツ軍と戦う道を進むことになる。

少女にとって真の「敵」とは誰のことなのか?

何のために戦うのか?

こうした「問い」を読者に投げかけながら、物語が展開する。

読み始めは、登場人物のセリフや物語の展開に、「ちょっと都合が良すぎない?」と突っ込みを入れたくなったが、後半、主人公の少女にとっての「敵」とは誰だったのかが明確になるクライマックスは読みごたえがあった。

主人公と共に戦う狙撃兵の少女たちはそれぞれ、戦う目的は異なっている。

ナチス・ドイツ軍の軍人、ソ連の軍人、一般の市民もそれぞれ、独ソ戦の捉え方、戦う理由が多様であることを描いた作品だと思った。

生まれ育った地域や環境、家族や学校を通して身に着けた思想や価値観、自らの経験などによって、「戦争」と聞いて思い浮かべるものが異なる。

そのことを踏まえたうえで、史実から学ぶことが大事なのかもしれない。

アマゾン「同志少女よ、敵を撃て」

https://amzn.to/3wEUt8y

2022年5月18日水曜日

【いつもの言葉を哲学する】無意識に使っている言葉に意識を向ける面白さ

「丸い」「四角い」とはいうけれど、なぜ「三角い」とは言わないのか。

なぜ、親になると、子どもに向かって「パパは、・・・」「お母さんは、・・・」などと自称するのか。

なぜ、「パンツ一枚」ではなく、「パンツ一丁」と言うのか。

などなど、

日常的に使っている言葉の中には、言われてみると不思議なこと、疑問になることが潜んでいる。

無意識に使っている時は、これらの不思議に気がつかない。

指摘されてはじめて、「あれ、どうしてなのだろう?」と疑問になる。

いつも使っている言葉だけに、そこから疑問が沸いてくると新鮮だ。

「いつもの言葉を哲学する」(古田徹也・著、朝日新書)

は、多くの人が無意識に、日常的に使っている言葉の例を挙げて、

「これ、不思議じゃないですか?」と問いかけてくる。

なぜ、そういう使い方になったのか。

なぜ、そのように表現するのか。

改めて考えさせる。

それは、言葉やその使い方の基盤となっている

価値観や思想、倫理、歴史や社会的背景などに目を向けることになった。

読み進めるなかで、本書のタイトルに「哲学する」と付けられている理由が分かってきた。

考え始めると深いが、誰もが日ごろ使っている言葉の話だけに、

家族や友達との会話のちょっとした「ネタ」としても使えそうだ。

最近読んだ本の中で、予想以上に、特に面白かった1冊。

https://amzn.to/3NjlGTV