2022年9月28日水曜日

【おいしいごはんが食べられますように】自分と社会の間で「食べる」が歪む

 

 「カップ麺やコンビニ弁当だけの生活は寂しい」 
 「1日3食、きちんと食べたほうが健康によい」 
 「一人で食べるより、恋人や家族と一緒に食べたほうが美味しく感じる」 などなど 

 いつ、何を、どこで、誰と、どんな風に食べるのが良いか(悪いか)。 
 あれこれ言ったり、言われたりすることがある。

 「食べる」は、自分の生命を維持していくために必要な行為だが、 経済的にある程度豊かになっている日本の社会では、 「食べる」という行為に、生存目的以外に様々な意味や価値を持たせる。

 自分の価値観が、社会(世間)で広く共有されているものと重なれば、 ストレスになることは少ないだろう。  しかし、そうではない時がやっかいだ。 

 社会(世間)とずれていても、 自分の価値観に従った食べ方をするのか。 
 それとも、自分が持っている価値観を隠し、 世間に受け入れられる食べ方をするのか。
 その選択は、自分自身の在り方、生き方に重なるにちがいない。 

 芥川賞受賞作「おいしいものが食べられますように」は、
 「食べる」という行為に焦点を当て、 登場人物それぞれが持っている価値観の違いを対比している。そして、その違いにより発生している人間関係の歪みを描きだした作品だ。 

 
「食べる」は、日常の行為ゆえに、この歪みは小説だから発生する特別なものではなく、 現実の人間関係の中にも、大なり小なりありそうだ。 そんなことを考えると、背筋がぞわぞわした。


  

2022年9月11日日曜日

なぜ、戦争がなくならないのか? 「戦争、反対!」というだけでは足りない理由

 

 戦争なんて、ないほうがいい。 平和であることが一番。 多くの人が、そう思っているものだと思う。 しかし、戦争は起こってしまう。 

 「戦争、反対!」と声を挙げることは大事だけど、それだけでは足りないと感じていた。 
ただ、一体、何が足りないのか? ずっと言葉にできなかった。 その答えをくれた一冊が「戦争は人間的な営みである」(石川明人・著、並木書房)だ。


戦争は「悪意」よりも、むしろ何らかの「善意」によって支えられているのである。人は必ずしも、「優しさ」や「愛情」が欠如しているから戦うのではない。誰かを憎み、何かと戦うには、そもそもそれ以前に、別の誰かを愛し、別の何かを大切にしていなければならない。何らかの意味での「愛情」あるいは「真心」があるからこそ、人間は命をかけて戦うことができてしまう、戦争を正当化できてしまうのだ。

もちろん戦争の悲惨さや悲しさを伝えていくことは、とても大切である。しかし、そうした情緒に訴えるだけが平和教育ではない。むしろ、冷静な視点から「戦争」や「軍事」を学ぶことも、大切なのではないだろうか。

私たちは、交通事故あるいは家事などに対して「火事反対」「交通事故反対」とデモ行進をしたりはしない。交通事故を減らしたければ、「反対」と叫ぶ以前に、自動車、道路、標識、信号機などについて、あるいは運転する人間の行動などについて、研究するしかない。自動車や交通規制について無知であれば、交通安全についても無知であろう。

  同じように、「戦争反対」と叫ぶだけでは意味がないのである。  

 

私自身、戦争をテーマにした映画や小説などを見たり、読んだりすることがある。それらには戦争の悲惨さ、悲しさが描かれている一方で、家族や友人への愛、友情、仲間との絆、困難に立ち向かっていく勇敢さが描かれている。敵と戦う登場人物の姿がカッコ良かったりして、魅力を感じたりもする。戦争はないほうがいい、平和が一番と思いつつ、愛や友情、勇気などに魅かれることがある

映画や小説など楽しんでいる時はそれでいいかもしれないが、時と場合によっては、「家族や恋人を守るために戦う」など、戦争に向かっていく理由にすり替わる可能性があることを認識しておく必要はあるだろう。

この本を読んで、改めて、「平和教育」の内容について考えさせられた。
過去の戦争について、例えば原爆の悲惨さなどを教わるような機会はあったと思うが、それ
以外に何かを学んだ記憶が私にはない。

著者が指摘するように、戦争が起こることを防ぐために、軍事や戦略などを学ぶことも必要なのかもしれない。それがどのようなものなのか知らないと、それが起こることも防ぐことは難しいと思う。

刺激的なタイトルだが、講演をまとめた本なので、著者の話を聞いているようにすっと読める。

教育に携わっている方、子育て中の方にぜひ、手にとっていただきたい1冊。