2017年3月31日金曜日

【あなたが成長するために必要なものは、何ですか?】

横山大観 春を描いたもの 山種美術館


「もっと成長できたらいい」

「より高いところを目指して、成長していきたい」

そんなふうに思うこと、ありますね。

そもそも、成長とは、何でしょうか?

私は、過去と現在を比べて、何か少しでも変化があること=成長 と思います。

「これから成長したい」と思うなら、

将来に向かって、自分の中にある何かを、変えていくことになりそうです。

これまでとは異なる視点を持つことも、変化の一つ。

これまで挑戦していないことに取り組むのも、変化の一つ。

ずっと続けていることに、工夫を加えることも、変化の一つ。といえます。

ただ、「変えよう」という意識がなくても、変化は生じる気もします。

一生懸命にしているうちに、

「あ、そういえば、昔と今とでは、ずいぶん気持ちが変わっている」などと、

後から振り返って、気がつく変化もあります。

成長するために必要なもの。

それは、とにかく前へ進んでいくこと。

行動していくことだと思います。

頭の中で考えることも大切ですが、

小さくても、行動できると、何かしら結果が出ます。

予想どおりの結果もあるし、意外な結果もあります。


成長するために「必要なもの」が具体的に見えていることが重要なのではなく、

必要なものが何か分からない中で、それを見つけようと探っていく過程に

「成長」がありそうです。


2017年3月29日水曜日

【発見される、私】

切り絵で、魔女に。

「どうして、見つけたの?」

仕事の帰り道、職場の最寄駅の改札付近で、私の名前を呼ぶ声がしました。
以前に、同じ会社で働いていた元・同僚でした。

帰宅ラッシュの時間帯、駅は、人、人、人で、ごった返しています。
私自身は、たいてい、ぼーっとしながら歩いているので、知り合いが歩いていたとしても、おそらく気が付かないでしょう。

ところが、元同僚は、すぐに私だと分かったといいます。
大勢の人がいる場所で、どうして私がいると分かるのか、不思議な気持ちでいました。

先週、夜遅く、今度は、渋谷駅から明治通り沿いを恵比寿方面に向かって歩いていると、
勉強会から帰宅途中の友人に呼びとめられました。

「どうして、私がいるって、分かったんですか?!」
「なんとなく、似た人が歩いてくると思って…」

日常的によく会っている相手なら、ピンとくることもあるでしょうが、
めったに会う機会がない関係なのに、どうして私を発見できるのか、不思議でした。

そして昨日、
夕方早めに仕事が終わったので、恵比寿駅から自宅へ歩いて帰ろうとしていたこところ、
ちょうど恵比寿で打ち合わせを終えて帰る途中の友人に発見されました。
大勢の人が行き交う中、私のほうは友人の姿に気が付かないのに、相手は、私に気が付いて見つけてくれました。

私の友達は、人に対するアンテナの感度が高い方が多いのかもしれません。

でも、この1カ月間、大勢の人の中で「発見される」という体験が重なったので、
ますます不思議になりました。

この出来事が、私に何を、教えてくれているのか?
と考えてみると、ちょっと怖いような、楽しいような気持ちがします。

私の周りで、何かが動いているのかもしれません。(さて、なんでしょう?)

その動きに乗っていけるように、エネルギーを備えておこうと思います。

2017年3月28日火曜日

【生きがいのために、どんな目標を立てたらいいですか?】



「生きがいといえるような仕事をしたい」
「自分の情熱を注ぎ込めるようなことを見つけたい」

そんなふうに考えたこと、ありませんか?
年齢や性別、立場に関わらず、「生きがい」を口にできる人は、素敵だと思います。
素敵に見えるのは、何かを目標に掲げて、日々、努力している姿があるからだと思います。

神谷美恵子さんの著者に、「生きがい」をテーマに書かれたものがあり、そこに下記のような記載がありました。

「人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうのことをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。
ただ、そういう生の構造のなかで歩いていること、そのことが必要なのではないだろうか。その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているものだともいえよう」(神谷美恵子・著 「生きがいについて」 みすず書房)

何かを成し遂げるために「目標」を掲げることは大切ですが、「目標」を達成できたかどうかよりも、「目標」を掲げて前進していく過程で「喜び」を感じることに意味がある。

前進している過程に感じる「喜び」が、まさに「生きがい」といえる。


「目標」を立てると、そこへつながる「道」が見えてきます。
その「道」を歩いている中で感じる喜びが「生きがい」といえるでしょう。


2017年3月27日月曜日

目の前にあることの意味が見いだせなくても、いいですか?


自分が望んでいない出来事が発生した時、どんなふうに考えますか?

戸惑ったり、「運が悪い」と思ったり、誰かのせいにしたり、さまざまな思いが生じます。自分を見失いそうになるかもしれません。

何事も良い側面を見出し、プラスにとらえたいものですが、
自分が望んでいなかった出来事には、なかなかそう思えないものだと思います。

生物学者の福岡伸一さんが、クリエイティブディレクターの水野学さんとの対談で、
次のようなことを話していました。(「アウトプットのスイッチ」水野学・著、朝日文庫)

「いろいろあれこれやっているうちに、なんとなくいろいろなことがつながってきたり、
思いもよらないところに関係性が生まれて、だんだん、いろいろなことが出てくる。だいぶ時間が経ったある時点から逆にみると、ああ、なるほどと、いろんなものがつながっていって、それは非常におもしろいものだというふうになる。だから、設計したんじゃなくて、発生してきたものが本当の解」

一つひとつの出来事には、意味を見いだせなくても、
バラバラだった一つひとつの点と点がバーッとつながって、
「そういうことだったのかもしれない」と意味を見いだせることがある。
そういう捉え方ができることもあるということです。

目の前の出来事に、今、ここで、意味を見いだせなくても、
これから先、それが何かとつながって、何らかの意味が見いだせることがある。
そう信じて、前に進むことが必要なこともあるかもしれません。

2017年3月22日水曜日

【マイナス感情に支配された自分を、解放するには?】

京都・仏光寺の外壁に掲示されていた言葉


「怒りは、一回、辞めてみたら?」
「不安は、一回、ないことにしてみたら?」
怒り、悲しみ、不安など、マイナスの感情で心の中がいっぱいになってしまうと、毎日が楽しくはありません。「頑張ろう」「挑戦しよう」という前向きな姿勢も持てなくなります。
マイナスの感情から自分を解放するには、どうしたらいいでしょうか?

①「一回、辞める」「一回、手放す」「一回、ないことにする」

冒頭に挙げた「一回、辞める」「一回、ないことにする」は、
自分を解放するためのきっかけをつくる問いです。

マイナス感情は増幅しやすいので、その増幅にストップをかける。
まず、一回、辞める。
一回、なかったことにする。
そうして、少しクールダウンをすることが、冷静に物事を考えるために必要だと思います。

②考えることを辞め、行動から変える

いったん冷静になり、あれこれ考え始めると、再び、マイナス感情に襲われることがあります。考えるという行為がマイナスの方向へ向かうループから抜け出せていないときは、思い切って、「考えることを、辞める」のがいいかもしれません。

例えば、
「少し、早起きをして、いつもと違うルートで出勤してみる」
「朝食を抜いていたが、朝ごはんをしっかり充実してみる」
「いつもより明るい色合いの服を選んでみる」
感情を変えようとするのではなく、まず、行動を変える。
行動をきっかけにして、固まっていた気持ちをほぐしていくと効果的なようです。

③マイナス感情の「理由」「原因」をとらえ、疑ってみる

次のステップとして取り組みたいことは、
マイナス感情の「理由」や「原因」だと思われることを、一回、疑ってみることです。

例えば、「私は、上司に対して、怒りを感じている」
「その理由は、上司が怠慢で、仕事ができないからだ」
「仕事ができないくせに、細かい指示をされるからイライラするのだ」などなど、
自分が怒りを感じる「理由」を整理してみましょう。
さらに、その理由について「本当に?」と疑ってみることが大切だと思います。

例えば、「たしかに上司は仕事ができないが、自分への指示の中には適切なものも含まれていた」と肯定的な事柄を見つけることができると、それは、怒りの感情から脱出する手がかりになりそうです。

「理由」が説明できる感情の基盤には、自分の考え方、自分の価値観があるはず。
それを疑ってみると、「上司の嫌なところばかり見ていた」「自分の落ち度には言い訳をしていた」などの気づきが出てきて感情を整理できるかもしれません。
  
とはいえ、感情を整理したり、思考を整理することは、自分ではなかなか難しい。
私自身も、自分のことは自分で整理できない。

そのために、コーチングのような手法が有意義なのだと感じています。

2017年3月21日火曜日

【成長できる人って、どんな人ですか?】

レモン味のさっぱりパスタ


成長できる人は、どんな考え方をしているでしょうか?

「成長できる人は、こんなことができる人」という要素を挙げてみようと思います。

①今の自分に満足していない。でも、不満でいっぱいというわけでもない。

今の自分について、「できていること」「できていないこと」の両方を捉えている。
「できていること」で、一定の自信を持ち、それを原動力に新たなチャレンジをしようとします。
「できていないこと」をとらえることは、
これからチャレンジすることを具体化できていること。
漠然とした不安にかられて動けないという状態ではありません。
「できていないこと」が明らかになった時点で、次の行動に向けて一歩を踏み出していると思います。

②頭の中で考えているばかりではなく、行動している。

成長している人は、頭の中で考えているだけではなく、行動しています。
行動すると、何らかの結果がでます。うまくいく場合もあれば、そうでない場合もありますが、それを材料にまた考えて、行動します。
この、考える、行動する。そして、また、考える。というプロセスが、まさに成長につながるのだと思います。

③他人の力を借りることを恐れない。

一人の力で考えることには限界があります。
自分の知識や自分が経験したことの範囲内で考えます。
同じことをぐるぐる考えて堂々巡りをしてしまうことも起こります。
行動した結果を、良い面で捉えるか、悪い面で捉えるかも、個人の傾向があります。
自分の考え方や、行動の選択肢とは、異なる考え方、多様な選択肢を手に入れるには、
他人の意見や経験を参考にすることだと思います。

成長は、今の自分の殻を破っていくこと。
そのために、他人の力を借りるのを恐れない人は、成長できる人だと思います。



2017年3月17日金曜日

【マイナスをプラスに逆転すること、できますか?】

草もち 京都でいただく和菓子は美味しい


マイナスだと思っていること、「逆転できたらいいな」と思ったことはありませんか?

「マイナスを、プラスに変える」

例えば、弱みや短所をなくす=ゼロにする
さらに、それらを強みや長所に変える。
そんなことが、できるでしょうか?

先日、京都の古い町並みを眺めながら歩いていると、小さな和菓子屋さんがありました。
有名なお店ではなく、住居兼店舗の町家で、家族で経営しているようなお店です。

美味しそうなお菓子が並んでいたので、店先から奥へ向かって「こんにちは!」と声をかけましたが、誰もでてきません。お店の中に入って、もう一度、「こんにちは!」と声を張り上げると、ようやく2階建の奥のほうから、「は~い」と声がしました。

人が階段を一段一段ゆっくり降りてくる音がして、初老の女性が店先に姿を現しました。
「階段が急なもので、時間がかかってしまって…」と一言。
「いえいえ、急な階段は危ないですから。急ぎませんし、全然、構いませんよ」と私。

女性は、私が求めたお菓子を包装しながら、
「修理するにも、この地域の建物は建て替えができなくてね」
「玄関から奥まで建物が長いから…」と、店先にすぐに出られなかったことについて
申し訳なそさそうに続けます。

間口が狭く奥に細長い構造であること、
階段が急勾配であること、などなどは、
京都の歴史のある建物の特徴だと思います。

私は、こうした日本の古い建物が好きなので、
「でも、建物が奥へ細長いのも、階段が急なのも京都の文化かなと思いますし、不便かもしれませんけど、それがなくなったら京都らしさがなくなってしまいますよね」とお話しました。

その一言で、今まで腰を低くしていた相手が、はっとして顔を上げました。
「いやぁ、そんなん言うてもらえたら、安心するわ」
背筋も少し伸びたように見えました。

自分が「マイナス」だと思っていること。

他人の目からみると、それほど「マイナス」なものではないかもしれません。

例えば、「周囲の目を気にしてしまう」と欠点に思っていることも、
「周囲の反応に敏感。感受性が豊か」と受けとめられる可能性もあるのです。

「マイナス」であること考えている物事、出来事について、それらの中に「プラス」にとらえられる要素がないか?

あえて探ってみると、発見がありそうです。



2017年3月16日木曜日

【「ありのまま」で、いいですか?】

河津桜が飾られていました
「ありのまま」で、いいですか?

「ありのまま」の自分のこと、どんなふうに思っていますか?

「まあまあ、いい感じがする」
「すごく、充実している」
「もっと、余裕を持ちたい」
「足りないところを、補いたい」
「辛くて、苦しいから、自分を変えたい」

時と場合によって、自分自身のとらえ方は、さまざま。
とらえ方は、自分次第ですね。

この「とらえ方」を意識的に使うことで、
悩みの深みから脱出したり、
成長するために行動できたりするものだと思います。

例えば、ちょっと面倒な注文をしてくる顧客先を任された時、
「面倒な案件をふられてしまった。ついてない。最悪だ」と考えるか、それとも、
「面倒な案件だが、これをうまく処理できたら、自分の力がつくはずだ」と考えるかで、
仕事の仕方や、モチベーションも変わってくるはずです。

そうは言っても、何事も前向きにとらえることは、難しい。
問題にぶつかり、悩みの深みにはまると、前向きなとらえ方をしようと思っても、できない状況が発生します。

そんな時、私自身が、自分の心の中、頭の中を整理するためにやってみるのは、
空から自分を眺めているような気持ちになって、自分が、どんな「とらえ方」をしているか、考えてみることです。

「怒り」「悲しみ」「不安」「恐れ」などなど、マイナスの感情につきまとわれていたら、
その感情は、「どのような、とらえ方をしているから、生まれたのか?」を追求していきます。

すると、「私って、結構、プライドが高いところがある」とか、
「自分と価値観があわない人を、受けとめられなかったんだ」など、
いくつか気づきが生まれることが多いです。

「自分は、こういうとらえ方をするんだ」という癖や傾向が分かると、
前向きな気持ちになるには、その「とらえ方」をどのように修正したらよいかが見えてきます。

「ありのまま」で満足できたら、幸せですが、
問題にぶつかって、「ありのまま」ではいられなくなった時が、チャンス。
何かを変えること、変えようとすることは、成長につながると思っています。

昨日の「ありのまま」と、今日の「ありのまま」は、同じではないかもしれません。


2017年3月14日火曜日

【期待しない自由】相手への思いがあるから「期待する」。でも、諦めではなく、愛のある「期待しない」もある

オレンジパイ#スターバックス

ALS患者となった母親の介護をテーマに書かれた「逝かない身体 ALS的日常を生きる」(川口有美子著・医学書院)という本の中に、「期待しない自由」と題して書かれたページがあります。

24時間、母親につきっきりの介護となり、子育てもしなければならず、心身ともに押しつぶされてしまいそうな状況になってしまった著者は、「理想主義と完全主義を一切やめて、なるようにしかならないと運命に身を委ねることにしたら、とたんに身も心も自由に晴れ晴れとしたのである」と書いています。

また、「長生きのALS患者は、自己愛と存在の絶対的肯定によって支えられている」ということと、「病いに侵されて何もできなくなってもなお自分を大切にできる人は、弱く衰えた自分でも愛せる自由で柔軟な思考回路の持ち主であった」と気がついたといいます。
ALS患者に向き合う中で、お子さんへの接し方も変わったそうです。

「期待する」ことは、子どもや家族、恋人や友人、職場の同僚や部下に対して、「こうしてほしい」「こうあってほしい」という思いがあるからこそ、生まれるものだと思います。
「期待されている」ことが伝わると、相手はそれに応えようと頑張ることもあります。
「期待する」ことは、他人との関係において力を発揮するケースもあるといえるでしょう。

しかし、本書を読み返していて、
「期待する」ことが、自分自身にとっても、「期待される」相手にとっても、枷(かせ)のようになることもあるのだと、改めて気が付きました。

「こうしてほしい」「こうなってほしい」と思っても、相手はこちらの期待通りにはならないもの。
相手の心の中に「期待に応えたい」という思いがあっても、病気や障害、その他さまざまな理由により、応えられないこともあるはず。

期待する思いが強ければ強いほど、その期待に応えてもらえない状況は、苦しく、辛いものになるのかもしれません。
そこで、あえて「期待しない」ことを選び、「なるようにしかならない」と考えた時、期待の枷を取っ払うことができるのでしょう。

自分が抱えている「期待」から、いったん手を離してみると、見える景色が変わってくる気もします。

ここでいう「期待しない」は、諦めとは異なり、相手への思いが背景にある選択だと思います。



2017年3月12日日曜日

【配慮はするけど、遠慮はしない】でも、配慮と遠慮の判断は、どうするの?

地下鉄のプラットフォームで見つけた広告。コピーが気になりました。

「配慮はしますが、遠慮はしません」

東京・大手町の地下鉄のプラットフォームで、こんなキャッチコピーが書かれた広告を見つけました。

この言葉、何かの本で読んだ記憶があります。

障害のある人との関わりについて書かれた本だったと思います。

「配慮」と「遠慮」をとりまく問題について、改めて考えると、
私は、「知的に障害がある」といわれる人と一緒に生活する中で、
障害に対する「配慮」の必要性を感じることがあります。
一方で、職員さんが障害のある人の支援をする家ではなく、
一人ひとりの「自立」を基本としている家(シェアハウス)ですので、
障害のある人とない人が「対等である」ということを大切にしようと思っています。

余計な配慮はしない。つまり、余計な配慮=「遠慮」はしない。

本当に、その通りだと思います。

しかし、実際は、それほど簡潔に整理がつくわけではなく、
この「配慮」と「遠慮」について、どう判断するか。
しばしば、問われることになります。

例えば、障害のある人が、他の障害のある人の安心を脅かすような言動をしてしまった時、当然、「そういうことは、いけないよね」とか、「みんなで暮らしていくために、大切にしなければいけないことは、何?」という話をすることがあります。

話をしながら、私は、心の中で、「そもそも、なぜ、そのような問題行動をしてしまうのか?」を考えていくことが多いです。

その時に「障害」が理由に、そうしてしまうのか。「障害」とは別の理由で、そうしてしまうのか。という問いが出てきます。

障害があるゆえに「できない」ことは、配慮が必要なことに当たると整理ができます。

障害とは「別の理由」、例えば、その人の性格や人格に触れる部分に理由があると考えた時、そこに余計な配慮は必要なく、遠慮せずに接することだと考えています。

そう思ってみるものの、障害とは「別の理由」について、さらに考えていくと、
「障害」があるがゆえに、これまでの人生の中でさまざまな経験ができず、
それゆえに、理解がしにくいのかなと思うことが出てきます。

性格や人格を形成する過程で、「障害」が影響していると思うと、
「遠慮はしない」と思っていても、揺らぐのです。

「配慮」と「遠慮」
実は、それほど簡単なものではないなぁ、と思ったりします。