2023年12月16日土曜日

【はじめての短歌】あいまいで、もやっとするのがイイ

 

 取材記事や日々起きた出来事をブログに書いたりはしているが、短歌をつくったことはない。 国語の教科書に載っていた短歌はある程度、記憶にあるが、それ以外の短歌の作品について比べてみたことはなかった。 

 つまり、すでに高く評価された短歌を知っているだけで、 複数の短歌を比べて、良し悪しを考えたことがない。
 日頃、読んだり書いたりしている文章に比べると、短歌はとても短い文だが、どこに注目して読んだらいいのか。
良し悪しを判断する基準を持っていなかった。 

 穂村弘さんの「はじめての短歌」(河出文庫)を読んで初めて、短歌の読み方を知った。 

 文章を書くとき、たいていは、読む人に「分かりやすく」「具体的に」と求められる。 
しかし、短歌では、「分かりやすく」「具体的に」を目指すと、味わいや面白みがなくなってしまう。 

 「〇〇は、そういう状態」と「〇〇は、散らかっている」という表現があった場合、
短歌なら「そういう状態」のほうが良い。 

具体的な状態は一切分からないため、読者は「一体、どうゆう状態」と疑問が沸いて、もやっとし、それぞれの頭で想像する。
短歌は、読者の心を動かすことができるか否かが重要だからだ。「散らかっている」では、読者の多くは「あー、散らかっているんだね」で終わってしまう。もやっとしないし、「そういう状態」と比べると、想像もそれほど膨らまないだろう。 

短歌は、言葉一つひとつの選び方、それらの並べ方で、作品の世界観が大きく変わる。
奥深くて、面白いことを知った。



2023年12月7日木曜日

【三十の反撃】頑張ることに疲れて、何もできなくなったあなたへお勧めの1冊


「100枚ほど履歴書を送って、面接の機会をくれたのは1社だったよ」

就職活動をしていた同級生が、ため息をつきながら言った。企業の人事担当者が、自分の書類のどこを見て、「不採用」と判断するのか分からない。面接する(会って話す)機会を与える価値もないと言われている気がしてしまう。

ただ、なんだか悔しい。

友人の言葉は、学生食堂のテーブルを囲んでいる同級生たちの間に落ちた。
一瞬の沈黙が流れた。皆、似たり寄ったりの状況だった。

企業が新卒の採用人数を絞り、「超氷河期」と言われた時期のことだ。
就職する時期が悪かった。ただ、それだけだ。

しかし、私自身がそう思えるようになったのは、ずいぶん後になってからで、大学生の当時は、社会や経済状況がどうであろうと、自分たちが努力して将来の道を切り開かなくてはならないと考えていた。

小説「三十の反撃」(ソン・ウォンピョン・著、矢島暁子・訳)の主人公は、大学卒業後、正社員への就職を目指して応募をし続けている女性、キム ジへ。
彼女は、大手企業DM社の文化事業ディアマンアカデミーで、非正規職員のインターンとして働いている。その収入で借りることができるのは、半地下の家だ。
正社員に応募しつづけているものの、ジへ自身、自分は何がしたいのか、はっきりしない。恋愛も上手く続かず、30代を迎えて、親から「結婚は?」と問われるプレッシャーを感じてもいる。

このままではいいとは思っていない。しかし、正社員になることが厳しい現実を知っており、現状を変えようとする気持ちが萎えている。
自分が頑張ったところで、何が変わるのか?という疑問が沸き、
諦めの気持ちが強くなっている。
そんなキム・ジへは、新しくインターンとして入ってきた男性、イ・ギュオクとの出会いをきっかけに、少しずつ変わっていく。

文化事業で関わっている講師の高慢な態度。職場の上司の不衛生な習慣。
これまで目をつぶって見て見ぬふりをしてきたが、本当はずっと「嫌だ」「変だ」と思ってきたことに対して、小さな行動を起こしていく。
これらは、現状を変えるための「反撃」と言える行動だ。

やがて、ジへは自分自身の人生を大きく変える選択をする。
物語の終わりは、誰かの前向きな一歩が、社会を変える一歩に繋がる可能性があることを感じさせる。清々しさがあり、勇気が沸いてくる。

頑張ることに疲れている人、
「何をしても、どうせ変わらない」と諦めかけている人たちに、ぜひ、手にとってほしい。

Amazon「三十の反撃」

2023年10月8日日曜日

【詩と散策】暑さと寒さの「間」に

 

 

先週まで、クーラーを使用していたのに、

今週は、もうそろそろフリースを箪笥から出しておかなきゃという気温になった。

夏から秋のはずだが、秋はあっという間に終わり、一気に冬に突入しそうだ。

気候変動の影響を受けているのだろうか。

暑さも寒さもそれほど厳しくない、過ごしやすい時期、

夏と冬、冬と夏の「間」の時期が短くなっている気がする。

 

韓国の詩人のエッセイ「詩と散策」(ハン・ジョンウォン・著、橋本智保・訳、書肆侃侃房)

に収められている一篇「猫は花の中に」は、「間」をテーマにしている。

 

著者は、春から夏にかけて、桜が散り、気温が上がり始めると、人が口癖のように「もうすぐ夏なんじゃない?中間ってものがないよね」ということを取り上げて、次のように書いている。

 

いや、中間はある。花が咲き、散るときだけを貼ると呼ばなければ。毎日、散歩をしている人なら、季節はある日突然変わるものではないことを知っている。二月に入った頃からすでに春は存在していた。土が膨らみ、木の枝は色を変える。虫が這い出し、猫が騒ぎ始める。(中略)春の気配はこんなに散りばめられているのに、都市のビルの中で私たちが関知できないだけだ。(p120)

 

著者は、季節だけではなく、散歩の途中で見かけていた猫たちとの関わりから、生と死の「間」にも目を向け、金子みすゞの詩「蜂と神様」を引用して、紹介している。

 蜂はお花のなかに、

お花はお庭のなかに、

お庭は土塀のなかに、

土塀は町のなかに、

町は日本のなかに、

世界は神さまのなかに。

 

さうして、さうして、神さまは、

小ちやな蜂のなかに。


 (金子みすゞ「蜂と神様」『金子みすゞ、ふたたび』小学館)

「あとがき」の中でも、著者は、冒頭で取り上げた詩人のオクタビオ・バスが、『詩の留まるところは、「間(あわい)」だと言っていることに触れ、『詩だけではなく、この世界を形作っている真心や真実も、この『間』にあるのではないかと思います』と書いている。

 

人の言葉や行動、出来事があると、そのことに注目し、気をとられてしまうが、

言葉と言葉の「間」、行動や出来事など何も起きていないように見える「間」に目を凝らすと発見があるのかもしれない。

 

本書は、秋の夜長に、一人で静かに読むのにピッタリの1冊だ。

季節や自然の移り変わり、人の心の中にあるささやかな感情の動きに、改めて目を向けさせる。多忙な毎日の中で見過ごしている事柄に気が付かされ、自分の心の中を見つめることになる。ページをめくるうちに、自分の心の中が穏やかになっていた。

 

「詩と散策」

 

2023年8月30日水曜日

「スピリチュアル」なものを信じるのは、現実逃避?

 



渋谷や吉祥寺などの繁華街、ビルの一角に「占い」の看板を掲げている店舗を見かけることがある。外から中の様子は分からない。営業しているようなので、それなりにお客さんがいるのだろうけれど、人が出入りしているところを目撃したことはない。気になっているけれど、私自身はまだ実際に入ったことがない。「占い」に対してなんとなく「怪しい」という印象があり、現実から逃避する手段のように考えてしまう。お金を使うなら、美味しい食事や新しい洋服とか、具体的なものに使った方が良いような気がするからだ。

 

Z世代」とは、1990年代後半から2010年頃までに生まれた人たち。2023年現在、10代~20代前半の人たちを指す。この世代の特徴として挙げられるのは、スマートフォンやSNSを子どもの頃から使っているということだろう。米国在住の竹田ダニエルさんの著書「世界と私のA to Z」(講談社)は、1997年生まれの著者の視点から見たZ世代の傾向や特徴について紹介している。

 

この本の中で、興味深かったのは「スピリチュアル」について書かれた箇所だ。スピリチュアルなものとは、タロットリーディングや瞑想、星占いなどが挙げられる。

 

著者は、次のように書いている。

『テクノロジーが発達した中で育ったZ世代が、「スピリチュアル」という精神的で非科学的に見える文化になぜ関心を持つのか、不思議に思う人も多いかもしれない。しかし、Z世代が子どもの頃から不安定な世界を生き、将来に不安を抱えていることを考えれば、心の拠りどころとして科学や目に見える世界以外のものを信じたくなる傾向にも納得がいくのではないだろうか。繋がりすぎている時代において、星占いで運勢を占ったり、TikTokのタロットリーダーをフォローしたり、水晶の力に頼ったりすることは、既に決まっていて自分の力では変えられないものを知ることであり、安心感を得られるのだ。』

(中略)

『古くからの宗教の慣習を捨て、科学や理屈では説明ができない、不思議で魔法的でどこかわくわくするような「信じられる」ものを、Z世代は求めているのだ』

 

Z世代にとって、スピリチュアルなものを利用することは、息苦しさや不安を感じている現実から自分自身を解放する手段なのかもしれない。彼らにとって、スピリチュアルなものは現実から目をそらしたり、逃げたりするための手段ではないのだろう。科学的に説明が付かない物事に触れることで自分自身の世界観を拡げ、それによって目の前の現実に向き合い、そこにある厳しさ、息苦しさを乗り越えようとしているのかもしれない。

 

SNSなどで占いやタロットなどを楽しみながら、自分自身の世界観を拡げているとしたら、Z世代は逞しい感じもする。


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2023年8月21日月曜日

「あいつは絶対に許せない」と思う相手を、許す意味

 

「あいつは、絶対に許せない」と思う相手がいたら、どうするか?
私なら、そんな相手には「関わらない」「距離を置く」だろう。
何らかの理由で関わらなくてはならないとしたら、どうか?
恨みを晴らすために何かするかもしれない。相手に対して何かをすることはなくても、心の中で軽蔑し続けるかもしれない。
だが、ネガティブな感情を持ち続けることは、気持ちの良いことではないし、疲れてしまいそうだ。
「絶望図書館」(頭木弘樹・編、ちくま文庫)に入っている「虫の話」(李清俊:イ・チョンジュン・著、斎藤真理子・訳)は、「許す」ということの意味について考えさせる短編だ。
薬局を営む夫婦の1人息子が誘拐され、惨殺され、死体で発見される。犯人はすぐに捕まり、夫婦の知り合いだった。
この物語は、この夫婦の夫の視点で語られる。
不幸な出来事を前にした妻の様子が語られていく。
息子の死後、生きる気力を失っていた妻は、熱心な知人の勧誘により、キリスト教を信仰しはじめる。亡くなってしまった息子のために祈り始めるのだが、熱心に信仰するにつれて、獄中にいる犯人を「許す(赦す)」ことについて考え始めることになる。
「神」は、すべての人をお許し(赦し)になっている。
妻は、信仰に基づいて、犯人を許そうと考える。そして、ついに犯人との面会が実現する。
クライマックスは、犯人との面会が実現した後のことだ。
彼女が犯人と会い、話をした後、どうなったのか。
結末まで、ぜひ、読んでほしい。
読者の多くは、妻の選択を知った後、自分自身にとって「許す」ことはどのような意味を持つか考えることになる。
結局、「許す」ということは、相手のためではなく、自分自身のためのものだということになるだろう。「許す」ということは、恨みや憎しみから自分自身を解放するものだと思う。「許す」ことで救われるのは、自分自身だ。
どんな人でも、大なり小なり「許す」「許される」経験をしたことがあるだろう。この物語は、読者自身が自らの経験を振り返り、「許す」ことの意味を考える機会を与えてくれる。

2023年8月8日火曜日

【諦める力】「自分らしさ」は、創り出せるものではない

 

学習塾へ通うか、通わないか。

どの学校へ進学するか。

部活をどうするか。専攻はどうするか。

国家資格取得を目指すのか。

どの業界、どの会社に就職するか。

 人生において、選択しなければならないことがたくさんある。

小学生くらいまでは、保護者の意向がかなり反映される気がするが、

年齢が上がってくるに連れて、「これが好き」「これをやってみたい」など、自分自身で考えて選択することが増えてくる。

結果的に「自分で選んだ」としても、保護者や周囲の人々の影響は大きいだろう。

後から振り返って考えてみると、「それほど好きではなかったけれど、親に褒められるのが嬉しかったから続けた」というような選択もあるかもしれない。

 どんな選択であっても、大切なのは、自分自身が納得することに違いない。

 

元・陸上選手の為末大さんの「諦める力 勝てないのは努力が足りないからじゃない」(プレジデント社)は、現役を引退した2012年の翌年に出版された書籍だ。今から10年近く前の本だが、「諦める」というキーワードをベースに、その時その時の人生の選択について、その基盤となる考え方や視点が書かれている。スポーツ選手だけではなく、高校生や大学生、社会人でも参考になる本だと思う。

 

本書の中に、『「オンリーワン」の落とし穴』というテーマで書かれた箇所があり、

為末さんは、ヒットソングに出てくる、「ナンバーワン」にならなくても、「オンリーワン」であればいいという考え方に注目して、次のように書いている。

 

「あなたはオンリーワンだからそのままでいい」という考え方の落とし穴は、社会に存在する物差しで自分を図ることを諦めなさい、ということである。どんなに恵まれている人でも、自他ともにオンリーワンと言い切れるほど特徴がある人間なんてほとんどいない。

「あなたはあなたのままでいい」という言葉を疑いなく受け入れられるほどの自己肯定感は、「社会側から自分に一切認められなくてもいい」という諦めと一体なのだ。(中略)

自分らしくあればいい、と言われても、自分らしさとはいったい何かということがわからないから人は苦悩しているのだ。

 

究極的には、誰にも自分らしさなどないのではないかと思う。

自分らしさと思い込んでいるものは、他人から聞いたこと、どこかで見たもの、何かで読んだことの寄せ集めにすぎない。一つひとつを取り出せば特徴がなくても、その組み合わせが自分らしさと呼ばれているものになる。それを「オンリーワン」という言葉でくくってしまうと、かえってハードルが高くなる。

(本書P183-184

 

「自分らしさ」とは何なのかと考えてみると、私自身、他人に説明するのは難しい。

何かを選択して、その理由を誰かに説明した時、他人が「あなたらしい」と言い、それを「自分らしさ」と思うこともあるかもしれない。他人からそう言われても、自分ではそう思っていないこともある気がする。

 

結局、「自分らしさ」は、さまざまな言動の結果であって、意図して作りだせるものでもないのではないか。

 

日常生活のその時その時で、

目の前にある事柄について考えて、選んだり、決めたりして、行動する。

それを繰り返していくことがが、自分の人生を生きていくということで、

その結果が「自分らしさ」かもしれない。

 

アマゾン「諦める力 勝てないのは努力が足りないからじゃない」(為末大・著)

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2023年2月26日日曜日

【京都不案内】歴史や文化より面白いのは、人だ



20代の頃、3年間京都に住んだことがある。 

 大学は卒業したものの、就職氷河期で、先が見えなかった。
 そこで、とりあえず就職とは別の目的に切り替え、 「京都に住みたい」という夢を叶えることにした。 

 「京都に住みたい」と考えていた理由は、歴史や文化がある街だから。
 そして、都会でありながら、「東京ほどではない」ということだった。 
 当時の私にとって、「東京」は、渋谷と原宿、そして歌舞伎町のイメージ しかなかったので、「東京なんて、自分にはとても住めない」と思っていた。 


 京都で暮らして、一番良かったのは、 「会社員」「公務員」でもない人々にたくさん出会えたことだ。 
 西陣で暮らしている陶芸家や写真家などと出会い、 多様な働き方、生活の仕方があることを知った。 若いアーティストを支援している大人たちから聞く仕事や趣味の話も面白かった。 

 将来への不安がなくなったわけではなかったが、京都で出会った人々のおかげで 「就職先が決まらなくても、なんとかなるかも」「自分が好きなことをして生きていけばいいんだ」 と考えられるようになった気がする。 


 「京都不案内」(森まゆみ・著、世界思想社)は、著者の森まゆみさんが京都に住んでいるかのように滞在する中で、 出かけた場所や、出会った人々とのことを綴ったエッセイだ。 

 映画館、カフェ、ラーメン屋、銭湯などをテーマに書いているページもあるが、 森さんが京都で出会い、興味や関心を持った相手とのやりとりや、 インタビューのページのほうが、より面白い。 

 この本のタイトルの「不案内」について、私は、「不案内」=「案内しない」と思い込んでいた。 
 このため、「案内しないという本なのに、おかしい」と思いながら、読んでいた。

 「あの場所にこんな背景があったとは、知らなかった」 「昔、行ったことがあるけど、今はそんなふうになっているんだ」などなど、 ページをめくればめくるほど、森さんに京都を案内されている気分になってくる。 

 よりいっそう「変だな」と思ってようやく、「不案内」の意味の取り違いに気が付いた。

 「不案内」というのは「その道に通じていないこと」「勝手が分からないこと」を意味する。 「通じていない」「勝手が分からない」という人だからこそ、 気が付くことができた、京都の面白さがあるのだと思う。 

 ああ、やっぱり、また、京都に行きたい。

2023年2月23日木曜日

【植物考】「植物を考える」と「自分なんて小さな存在だなぁ」と思う


「植物考」(藤原辰史・著、生きのびるブックス)は、タイトルの通り、さまざまな視点から「植物を考える」一冊だ。

 

著者は、「はたして、人間は植物より高等なのか?」という問いを掲げる。

 

「人間は植物より高等だ」と考えるのは傲慢な気がするが、逆に「植物は人間より高等だ」と言い切ることも、腑に落ちない。

私は、樹齢が長い大木を眺めて「すごいなぁ」と思ったり、花びらを見つめて「絵具で作れない色合いだわ」と思うことがある。

しかし、人間は、作物を育てて食用にしたり、住宅の建材にしたりする。庭に花を植えたり、観葉植物を育てたりする。植物のすべてが人間の思いどおりになるわけではないけれど、人間は植物に影響を及ぼすことができる。そう考えると、「高等だ」と断言はしないものの、植物を自分より下に見ているかもしれない。

 

本書では、植物の在り方や特性として、次のような点が挙げられている。

「植物には知性がある」

「植物は移動する」

「植物が人間の歴史を動かした」

「人間は植物がないと地球上で生きられないが、植物は人間がいなくても生きていける」

 

植物は基本的に「知性がない」「動かない」と思っていたが、そうではない面があると知り、

人間が植物に及ぼす影響より、植物が人間に及ぼす影響のほうが大きいかもしれないと思えてきた。

 

改めて、「人間は、植物より高等なのか?」という問いに戻ると、これは「人間は、植物より高等とは言えないのではないか?」という問いと表裏一体だったのかもしれない。

「人間は、植物より高等とは言い切れない」という答えを、様々な根拠を挙げて解説したと言えるだろう。

 

「植物を考える」ことは、植物と人間を対比して、「人間を考える」ことになる。

植物の在り方・生き方を、自分自身の在り方・生き方と比べたり、重ねたりして考えることになるはずだ。日常生活の中で起こる出来事に右往左往していたり、対人関係で疲れてしまった人に、お勧めしたい1冊。


Amazon「植物考」




2023年2月13日月曜日

【いいとしを】親の背中を見て、子は憂う

 


朝9時半頃、勤務先の最寄駅であるJR御茶ノ水駅で下車する時、

ホームを歩いている人々の中に、誰かの姿を探してしまう。

 

知り合いではない。

探すというよりも、つい気になって見てしまうというのが正しいかもしれない。

年齢は7080代、たいてい2人連れだ。

白髪の男性がトートバックを肩から下げて、杖をついて歩いている女性の隣を歩いていたり、背中が丸い男性を乗せた車いすを後ろから押してエレベーターに向かっていたりする。

「私の父母と、同じ世代かな?」

「隣にいるのは娘さんかも」

彼らの姿を見ながら、2人の関係性を想像する。

 

彼らの目的地が、駅近くにある大学附属病院であることはほぼ間違いない。

「毎日の食事も、あの男性が準備しているのだろうか」

「お風呂やトイレも介助しているのかな」

などなど、通院が必要な家族との生活について、あれこれ考えをめぐらす。

 

幸い、私の両親は今のところ健康で、これまで病院に付き添った経験はない。

しかし、これから先、いずれ自分も似たような立場、状況になるのかもしれないと思っている。だから、駅のホームで、彼らの姿が気になってつい見てしまうのだと思う。

 

オカヤイズミさんの漫画「いいとしを」は、バツイチで40代の会社員である息子が、母親の急逝を機に、実家に戻って70代の父親と同居を始める物語だ。

 

父と息子の間は、特別に仲が良くも悪くもない。

大人になって以降はそれぞれで生活してきたから、互いによく知らない面もある。

改めて、同居するようになってから見る父親の姿は、子どもの時に見ていた父親の姿とは異なる。

 

子どもが幼い時、「親の背中を見て、子は育つ」と言われる。

しかし、子どもが成人し、親子ともにある程度、歳を重ねると、

子は、親の姿から老いに気づき、先のことをあれこれ心配して、

「親の背中を見て、子は憂う」と言えるのかもしれない。

 

漫画「いいとしを」は、父親と息子の間で、ぽろぽろとこぼされる「つぶやき」に耳を傾ける作品だ。短い言葉の一つひとつを噛みしめるように読むと、深い味わいがすると思う。

 

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2023年2月6日月曜日

【サイボーグになる】その技術の進歩は、人を幸せにするか?


障害は、「ある」よりも、「ない」ほうがよい。

新しい医療や技術によって、障害をなくす。

なくすことが難しいとしたら、障害がある身体をサポートして、それまでできなかったことをできるようにする。

つまり、障害が「ある」状態から「ない」状態に近づけていくことが望ましい。

そう考えることに、私はこれまで疑問を持つことはなかった。

 

「サイボーグになる」(キム・チョヨプ、キム・ウォニョン、牧野美加・訳、岩波書店)は、この障害が「ある」よりも「ない」ほうが望ましいとする考え方に、「ちょっと待って」と声をかけてくる1冊だ。

 

この本は、韓国のSF作家チョヨプさんと、作家・弁護士・パフォーマーのウォニョンさんが「身体」「障害」「テクノロジー」を主なテーマとして執筆したエッセイと、二人の対談が入っている。チョヨプさんは聴覚障害があり、補聴器を使用している。ウォニョンさんは車いすユーザーだ。

 

本書の中で、私が自分の障害に対する見方や考え方について「ちょっと待って」と立ち止まり、考え直すことになった箇所を紹介したい。

 

まず、ウォニョンさんが、障害のある身体と科学技術との関係について書いている箇所だ。

 

科学技術の発展は間違いなく、障害のある人の生活の質を高め、苦痛を軽減しつつある。わたしはそうした科学の発展や技術の応用を支持する。(中略)

科学が障害を「欠けた状態(欠如)」としてしか見ないのなら、車椅子はどれだけ進化しても、歩行能力の「欠如」という問題を解決する補助機器としてしかみなされないだろう。障害者は実際に、より進化した車椅子に乗り、より多くのことができるようになったにもかかわらず、依然として自身を欠如した存在だと考えるかもしれない。

 

最先端技術で武装したサイボーグになれば、わたしの「欠如」は本当になくなるのだろうか?映画の中のスーパーヒーローや、華やかなデザインの義足をつけて陸上トラックを走る一部スポーツ選手であればこそ、サイボーグは特別な存在としてみてもらえるけれど、実際に機械と結合して生きている人は依然として「変わった人」扱いされがちだ。そんな社会の雰囲気に反応して、障害のある人たちはよくこんなふうに言う。「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間なんですよ」。

 

「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間」だと主張するのではなく、「わたしは車いすに乗っていて、その点ではあなたと同じではないけれど、わたしたちは同等だ」と言うことは、どうすれば可能なのだろうか。

(本書第2章「宇宙での車いすのステータス」 P40P42 一部抜粋)

 

障害が「ある」状態を「ない」状態に比べて、欠如している状態だと捉えると、

障害のある人間は、障害のない人間と比べて、欠如した存在とみなすことに繋がる。

新しい技術の開発や普及は、欠如を埋める目的で進められることになる。

障害が「ある」⇒「ない」を目指す考え方に、どのような問題点があるのか。

障害者をサポートする新しい技術の開発は、「ある」⇒「ない」ではなく、どのようなベクトルを持つ考え方を基盤に進められるべきなのか。

ウォニョンさんの指摘は、身体障害と技術、社会との関係性をとらえる新しい視点を私に与えてくれた。

 

一方、聴覚障害者であるチョヨプさんは、自身の障害について、次のように書いている。

 

わたしは後天的に聴力が損傷されたケースなので、聴者と聴覚障害者の環世界をどちらも経験していることになるが、自分がどのように音を聞いているかを説明するのは容易ではない。あれこれ長々と説明しても相手を完全に納得させることはできない領域なのだろう。そんなふうにかんがえると、他人の環世界を想像するのが難しいのは言うまでもなく、自分自身のそれでさえきちんと理解するのは困難だという結論に至る。

 

わたしたちは、他人の生はそれぞれ極めて固有のものであるという事実を、知っているのにすぐ忘れてしまう。主観的な世界とは、その世界を実際に経験しながら生きている当人でさえ完全には理解できないものだということを、受け入れることができない。(中略)

 

聴覚障害者でSF作家であるわたしはときどき、「あなたの障害が作品世界にどのような影響を及ぼしているか説明してほしい」とか「あなたの障害も、SFを書こうと思った理由の一つなのか」といった、明らかな意図が感じられる質問を受ける。そういう質問にはなぜか、相手の望んでいる答えを返したくなくて、こんなふうに答えてしまう。「影響がなくはないでしょうけれど、それほど重要ではありません」。

あらためて考えてみると、最初は重要ではなかったけれど少しずつ重要になりつつあるような気がする。わたしにとってSFを書くことは、自分と異なる存在を探求していく過程のように感じられる。(本書第9章「障害の未来を想像する」P208より)

 

チョヨプさんの場合、作家としての才能発揮に聴覚障害が関係しているという見方や価値観を押し付けられることが多いのかもしれない。障害が「ある」ゆえに創作することが「できる」とみなされることは、作家にとって気持ちのよいものではないに違いない。

 

この点について、先にあげたウォニョンさんの指摘にあてはめるなら、

「わたしは補聴器を使っていて、その点では他の作家と同じではないけれど、作家としては同等だ」と言うことは、どうすれば可能になるだろうか。

ということだろう。

 

著者の2人はそれぞれ、ご自身の経験だけでなく、広告の事例、漫画や評論、小説の例などを多数挙げており、それらを通して「障害」「身体」「テクノロジー」について考えを深めていることが伺えた。

頭の中で何度も立ち止まり、考えを重ねたうえで出された言葉には重みがあるということを、改めて実感させられた1冊だった。

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2023年1月29日日曜日

【ワンダーボーイ】作家の「読書の仕方」、作品の舞台となる時代・社会の描き方について学びが多かった1冊


小説「ワンダーボーイ」(キム・ヨンス著、きむ・ふな訳、クオン)は、15歳の少年キム・ジョンフンがさまざまな人と出会い、成長していく物語だ。

ジョンフンには、母親についてはっきりした記憶がない。唯一の家族だった父親が交通事故で死んでしまい、絶望している。しかし、父を亡くした交通事故をきっかけにジョンフン自身は他人の心が読める能力を持ったため、それを軍部の人間に利用されてテレビ出演させられ、「ワンダー・ボーイ」として注目される。

 軍部の人間のもとから逃げだしたものの、当初のジョンフンは、「自分とは何者なのか」「自分は、何を支えに、どう生きていったらいいのか」かが分からず、もやもやしている。

天涯孤独になった少年ほどではないにしても、10代の思春期に、自分が何を求めているのかが分からず持て余したり、漠然とした将来に思い悩んだ経験がある人は少なくないだろう。ジョンフンの心のもやもやは、読者それぞれの思春期を思い出させるかもしれない。

なんともいえない、もやもや感の描き方が魅力的だ。

また、私は、のちに父親代わりの存在となるジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話すセリフに魅かれた。

 ジェジェン氏は出版社を経営しており、朝鮮戦争の遺族の苦しみを記録した書籍を出したのだが、政府により出版社登録の取り消し処分を受けてしまう。軍部から逃れた後、その出版社の事務所を住まいにしていたジョンフンは、自分の寝床を別に探さなければならなくなる。そうした出来事が起きた後で、ジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話す場面がある。 

「本を持っているなら、まずは、その本を触ってみるんだ。くんくん匂いをかいでみたり、ページの耳をちぎってかじってみたり。するとどんな本なのか、少しはピンとくるだろう?次に本を開いて、著者の言葉と目次の内容を読んでみる。ほとんどの本にはカバー表と裏に何か書いてあるが、それを読めばどんな内容なのか九十パーセント察しがつく。次は、本を閉じて想像することだ。その本のテーマについて、自分は何を知っていて、何を知らないのか。もし自分が同じ構成で本を書くとしたら、どんな内容でページを埋めていくのか。そんなことを考えてから本を読むと、自分が知らなかったことが何なのか、よりはっきりするだろう。そういう点で、本を読む一次的な目的は自分が何を知らないのかをはっきり自覚することだ」 (中略)

 

「天才的に読むためには、作家が書かなかった文章を読まなければならない。書いたものを消してしまったとか、最初から書かないと決めて外したとか、そういったことを。そこまで読めたら、ようやく本を読み終えたことになる」

   (本書P265~266より )


 ジェジェン氏の言葉は、著者のキム・ヨンス氏の「読書の仕方」だろう。こうした考えを基に「本を書く」ことに取り組んでいるのだと思い、興味深かった。

 

もう一つ、この作品において無視できないのは、時代と韓国の政治的・社会的背景だろう。

ジョンフンが父を亡くした年は1984年に設定されている。

その年に15歳だった少年が17歳になるまで、つまり1984年から1987年までの間に、韓国でどのような出来事が起こったのか。政治的・社会的な出来事をある程度知ったうえで、この作品を読むと味わいが異なるはずだ。ソウルの街の熱気や、政治的な出来事について語る登場人物たちの言葉の重みの受けとめ方が変わるに違いない。

 

「ワンダーボーイ」を読みはじめる前に、「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子・著、イーストプレス)を読んでいたことは、読書の大きな助けとなった。

「韓国文学の中心になるもの」は、翻訳家の斎藤氏が、日本でもベストセラーなった「82年生まれ、キム・ジヨン」から時代を過去へ遡るかたちで、韓国の政治、社会的な出来事と、作家、主な文学作品の関係性を整理して解説している。作家が何を意識して書いているのか、考える材料を与えてくれる本だと思う。こちらは、これから韓国文学を読んでみたいという人にぜひ、お勧めしたい。


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2023年1月23日月曜日

【コロナ時代の哲学】独りで居たいけど、誰かに見てほしい

 
 3年前の自分が、どうだったか? 
これまでの人生を振り返って、3年前の自分を問われて、はっきり答えられることは少ないのかもしれない。 

 30歳の時の3年前は、27歳。 20歳の時の3年前は、17歳。高校2年生。 15歳の時の3年前は、中学1年生?…。 

会社の業務で、何を担当していたか。 部活動を一生懸命していたか。 その年に流行していたドラマやファッションを調べれば、 よく見ていたものや購入したものなど、少し具体的に思い出せるかもしれない。 しかし、自分がどんなことを考えていたかということになると、ほとんど忘れてしまっていて、思い出せない。 

 今から3年前、2020年は、多くの人にとって、これまでにない出来事が起こった年だ。 新型コロナウイルス(COVID-19)の国内感染が一気に拡大し、「緊急事態宣言」が出され、働き方も生活の仕方も大幅に変更せざるを得なくなった。 ドラッグストアの店頭で、マスクやハンドソープ、アルコール消毒液が品薄になったことや、 飲食店やスーパーの閉店時間が早くなった。自宅で仕事ができるように部屋を整え、ZOOMなどインターネットのツールも使い始めたことは覚えている。 

 ただ、その激変した生活の中で、自分が、何を、どのように考えていたかはやはり、よく覚えていない。「これから先、一体、どうなってしまうのだろう?」という、先の見えない不安を抱えながら、日々を過ごしていた気がする。

 「コロナ時代の哲学」(大澤真幸、國分功一郎)は、2020年7月、COVID-19の感染が急拡大した中で発刊された。 大澤氏は、前書きの中で、「私たちは、生と死の全体、世界や社会のあり方の根幹に関して、これまで見たことがないものを見ており、感じたことがないことを感じている。こういうとき、私たちはいかに困難でも、まさに感じ、経験していることを言葉にしようと努めなくてはならない」と言っている。 さらに、その理由について、「渦中や直後に言葉にしようと努めなかったときには、それはすっかり忘れさられ、結局、私たちのうちにいかなる有意味な変化をも惹き起こさない」からだとしている。 社会の大きな変動に直面している「今」を、それぞれが、それぞれの言葉で語ることで、「今」になんらかの意味が付与される。うまく言い表せていなくても、そのうまく言い表せない感じは残る。意味を付与されたことは、記録や記憶に残り、後から改めて考えてみることができるだろう。 本書に掲載されている大澤氏の論文、國分氏との対談を読むと、彼らが、「今、言えること」「今、語れること」を精一杯、言葉に表している雰囲気が伝わってきた。 

 私が、この本の中で最も関心を持ったのは「監視」だ。

 大澤氏の論文の中で、「監視資本主義」が紹介されている。 これは、ショシャナ・ズボフが創った概念で、古典的な資本主義では、賃労働から剰余価値が発生するが、監視資本主義はインターネット上で個人が買い物や検索をすることによって、個人情報が資本に明け渡され、剰余価値が発生する。監視資本の代表企業はFacebookやGoogleなどで、個人情報から利益を得ている。 そして、重要なポイントは、FacebookやGoogleなどのサービスを利用している時、個人は客観的な自由のはく奪(個人情報が提供されている)があるにも関わらず、そのことを意識することはほとんどなく、主観的には自由に行動していると感じている点だという。 

 デイヴィッド・ライアンの「監視文化」についても紹介されている。 
現代人は、「監視」を必ずしも拒否しておらず、むしろ望んでもいる。例えば、SNSなどで投稿し、私生活を他人に覗かれることを楽しんでいる。誰からも見られてないことを恐れ、不安に感じてもいるという指摘だ。 「監視」という言葉は、自分の言動を細かくチェックされているイメージがあり、気持ちがよいものではない。積極的に「監視してほしい」と思っている人は多くないだろう。一方で、SNSへの投稿は、自分以外の誰かに「見てほしい」という思ってするもので、これは文化の一つといえそうだ。

 自由、気ままに生活をしたいなら、「おひとりさま」の生活スタイルを選択すればいい。 
他人と深く関わりたいわけではないけれど、自分の存在を誰にも知られないのも不安なのかもしれない。 
「おひとりさま」の暮らしをしながら、食べたものや身に着けたもの、出かけた場所などの写真を撮ってインスタにアップするのは、「ひとりで居たい」けど、「誰かに見てほしい」のだと思う。 

 「誰かに見てほしい」のだけれど、見てほしいのは本当の自分自身でもないだろう。
SNSへの投稿は、誰かに見せる、よそいきの「私」だ。 俳優やモデルではない、一般の人が誰かに見せるための「私」をつくる文化が普及した結果なのかもしれない。
この「監視文化」の今後は、興味深い。 

2023年1月3日火曜日

【2023年の幸福論】「幸せ」って、何?

「それでは、よいお年を!」 
年末に届いたメールに添えられていた一言に目がとまり、考えた。
 「よい年」って、一体、どんな年だろう? 新型コロナウイルス感染症の問題が終息すること? ロシア・ウクライナの戦争や、そのほか世界のどこかで起きている人権侵害や弾圧などの問題が解決すること? 「そうあってほしい」と願うけれど、問題が大きすぎて、私個人にできることはささやかなことにすぎないという気がする。
 「よい年」という言葉から沸いてくるイメージからは遠い。

 日常生活のほうへ目を向けて、「よい年」を考えてみると、 仕事やそのほかの取り組みが上手くいったり 両親や親せき、友人たちが健康に過ごしていて、 趣味や旅行を楽しむ機会があれば、 一年を振り返って、「今年もよい年だったな」と思える気がする。 

 「よい年」は、少し意味を広げて考えると「幸せ」ってことかな? と考え始めた頃、月刊誌「すばる」(2023年1月号)の特集テーマが「2023年の幸福論」と知り、手にとった。 

 この特集では、複数の著者が「幸福」について、様々な角度から論考やエッセイなどを執筆している。 そのなかの一つ、論考「幸せはどこからどこへ向かうのか」(山本貴光・著)では、 「幸福論」といえば引き合いにだされる3人の哲学者、 スイスの法学者・哲学者カール・ヒルティ、 フランスの哲学者アラン、 イギリスの哲学者・論理学者バートランド・ラッセル を取り上げて、紹介している。
さて、いずれの幸福論も、人間とはどのような存在かという観察と考察を示している。 そうした事の次第からして、その全体を要約することはほとんど意味がないくらいだ。 無理を承知で言えば、ヒルティは思い込みや偏見を捨てること、日々の感情や出来事に重きを置かないこと、仕事を典型とする活動に幸福を求めること、などを幸福の条件としている。 同様にアランは、多様なプロポを通じて、概ね二つのことを述べている。 幸福とは自分でなにかを欲したり、つくったりするものだということ。一時的な体の出来事や偶発的なことにこだわりすぎるのが不幸の原因だということ。 (中略) ラッセルは、彼の主張をこれまた無理やりまとめるなら、自分に没入しすぎるのは不幸のもとであり、自分以外の外界に広く興味を向けて、さまざまな人や物と友好的な関係を結ぶことが幸福の秘訣であるとなろうか。
著者は、これら3人の幸福論を踏まえて、いずれも「自分の状態や感情に注意を向けすぎるのは不幸の源」としている点に注目し、「注意をどこに向けるかという共通点がある」と指摘していた。

 メールに添えられていた「よいお年を!」の一言から、「よい年とは?」と自問し始めた私は、まさに自分自身の状態に注意が向いていた。 

「仕事が上手くいく」「自分や家族、周囲の人々が健康でいる」「趣味や旅行を楽しむ」など、 「こうなったらよい」と思うイメージを膨らませていた。 
「こうなったらよい」というイメージを持つことは、今後の目標を明確にし、その実現に向けて努力することもできるから、必ずしも悪いことではないだろう。

 しかし、山本さんの論考を読みながら、 「こうなったらよい」だという状態を強く思いすぎているのは、 危険な側面もあることに気が付いた。 例えば、「こうなったらよい」と強く思い描いていたことが実現しなかった時には、 喪失感を味わうことになるかもしれない。 「なぜ、そうならなかったのか」と原因を考え、その原因を他者のせいにして非難したり、個人の力ではどうしようもない環境に不満を募らせたりすることもありそうだ。 マイナスの感情に囚われて、毎日、もんもんと過ごしていくかもしれない。そういう状態は心地よいものではなく、「幸せ」と思えない気がする。

 一方で、「不幸せ」について考えてみると、こちらは「幸せ」以上によく分からない。
 これまの人生の中で、「辛い」「苦しい」「悲しい」「悔しい」と思った経験はあるが、だからといって「不幸せ」と考えたことはなかった。 

 月刊誌「すばる」の特集の執筆者の多くが、指摘していることだが、 「幸せ」とは、何か。 は、簡単にまとめるができない。

 「幸せ」とは、 それが何かが分からないまま日々を過ごしていて、 「よいお年を!」なんて言われた時に、 ふと、立ち止まって考えてみるものなのだろう。