20代の頃、3年間京都に住んだことがある。
2023年2月26日日曜日
【京都不案内】歴史や文化より面白いのは、人だ
20代の頃、3年間京都に住んだことがある。
2023年2月23日木曜日
【植物考】「植物を考える」と「自分なんて小さな存在だなぁ」と思う
「植物考」(藤原辰史・著、生きのびるブックス)は、タイトルの通り、さまざまな視点から「植物を考える」一冊だ。
著者は、「はたして、人間は植物より高等なのか?」という問いを掲げる。
「人間は植物より高等だ」と考えるのは傲慢な気がするが、逆に「植物は人間より高等だ」と言い切ることも、腑に落ちない。
私は、樹齢が長い大木を眺めて「すごいなぁ」と思ったり、花びらを見つめて「絵具で作れない色合いだわ」と思うことがある。
しかし、人間は、作物を育てて食用にしたり、住宅の建材にしたりする。庭に花を植えたり、観葉植物を育てたりする。植物のすべてが人間の思いどおりになるわけではないけれど、人間は植物に影響を及ぼすことができる。そう考えると、「高等だ」と断言はしないものの、植物を自分より下に見ているかもしれない。
本書では、植物の在り方や特性として、次のような点が挙げられている。
「植物には知性がある」
「植物は移動する」
「植物が人間の歴史を動かした」
「人間は植物がないと地球上で生きられないが、植物は人間がいなくても生きていける」
植物は基本的に「知性がない」「動かない」と思っていたが、そうではない面があると知り、
人間が植物に及ぼす影響より、植物が人間に及ぼす影響のほうが大きいかもしれないと思えてきた。
改めて、「人間は、植物より高等なのか?」という問いに戻ると、これは「人間は、植物より高等とは言えないのではないか?」という問いと表裏一体だったのかもしれない。
「人間は、植物より高等とは言い切れない」という答えを、様々な根拠を挙げて解説したと言えるだろう。
「植物を考える」ことは、植物と人間を対比して、「人間を考える」ことになる。
植物の在り方・生き方を、自分自身の在り方・生き方と比べたり、重ねたりして考えることになるはずだ。日常生活の中で起こる出来事に右往左往していたり、対人関係で疲れてしまった人に、お勧めしたい1冊。
2023年2月13日月曜日
【いいとしを】親の背中を見て、子は憂う
朝9時半頃、勤務先の最寄駅であるJR御茶ノ水駅で下車する時、
ホームを歩いている人々の中に、誰かの姿を探してしまう。
知り合いではない。
探すというよりも、つい気になって見てしまうというのが正しいかもしれない。
年齢は70~80代、たいてい2人連れだ。
白髪の男性がトートバックを肩から下げて、杖をついて歩いている女性の隣を歩いていたり、背中が丸い男性を乗せた車いすを後ろから押してエレベーターに向かっていたりする。
「私の父母と、同じ世代かな?」
「隣にいるのは娘さんかも」
彼らの姿を見ながら、2人の関係性を想像する。
彼らの目的地が、駅近くにある大学附属病院であることはほぼ間違いない。
「毎日の食事も、あの男性が準備しているのだろうか」
「お風呂やトイレも介助しているのかな」
などなど、通院が必要な家族との生活について、あれこれ考えをめぐらす。
幸い、私の両親は今のところ健康で、これまで病院に付き添った経験はない。
しかし、これから先、いずれ自分も似たような立場、状況になるのかもしれないと思っている。だから、駅のホームで、彼らの姿が気になってつい見てしまうのだと思う。
オカヤイズミさんの漫画「いいとしを」は、バツイチで40代の会社員である息子が、母親の急逝を機に、実家に戻って70代の父親と同居を始める物語だ。
父と息子の間は、特別に仲が良くも悪くもない。
大人になって以降はそれぞれで生活してきたから、互いによく知らない面もある。
改めて、同居するようになってから見る父親の姿は、子どもの時に見ていた父親の姿とは異なる。
子どもが幼い時、「親の背中を見て、子は育つ」と言われる。
しかし、子どもが成人し、親子ともにある程度、歳を重ねると、
子は、親の姿から老いに気づき、先のことをあれこれ心配して、
「親の背中を見て、子は憂う」と言えるのかもしれない。
漫画「いいとしを」は、父親と息子の間で、ぽろぽろとこぼされる「つぶやき」に耳を傾ける作品だ。短い言葉の一つひとつを噛みしめるように読むと、深い味わいがすると思う。
「いいとしを」https://amzn.to/3xelRK6
2023年2月6日月曜日
【サイボーグになる】その技術の進歩は、人を幸せにするか?
障害は、「ある」よりも、「ない」ほうがよい。
新しい医療や技術によって、障害をなくす。
なくすことが難しいとしたら、障害がある身体をサポートして、それまでできなかったことをできるようにする。
つまり、障害が「ある」状態から「ない」状態に近づけていくことが望ましい。
そう考えることに、私はこれまで疑問を持つことはなかった。
「サイボーグになる」(キム・チョヨプ、キム・ウォニョン、牧野美加・訳、岩波書店)は、この障害が「ある」よりも「ない」ほうが望ましいとする考え方に、「ちょっと待って」と声をかけてくる1冊だ。
この本は、韓国のSF作家チョヨプさんと、作家・弁護士・パフォーマーのウォニョンさんが「身体」「障害」「テクノロジー」を主なテーマとして執筆したエッセイと、二人の対談が入っている。チョヨプさんは聴覚障害があり、補聴器を使用している。ウォニョンさんは車いすユーザーだ。
本書の中で、私が自分の障害に対する見方や考え方について「ちょっと待って」と立ち止まり、考え直すことになった箇所を紹介したい。
まず、ウォニョンさんが、障害のある身体と科学技術との関係について書いている箇所だ。
科学技術の発展は間違いなく、障害のある人の生活の質を高め、苦痛を軽減しつつある。わたしはそうした科学の発展や技術の応用を支持する。(中略)
科学が障害を「欠けた状態(欠如)」としてしか見ないのなら、車椅子はどれだけ進化しても、歩行能力の「欠如」という問題を解決する補助機器としてしかみなされないだろう。障害者は実際に、より進化した車椅子に乗り、より多くのことができるようになったにもかかわらず、依然として自身を欠如した存在だと考えるかもしれない。
最先端技術で武装したサイボーグになれば、わたしの「欠如」は本当になくなるのだろうか?映画の中のスーパーヒーローや、華やかなデザインの義足をつけて陸上トラックを走る一部スポーツ選手であればこそ、サイボーグは特別な存在としてみてもらえるけれど、実際に機械と結合して生きている人は依然として「変わった人」扱いされがちだ。そんな社会の雰囲気に反応して、障害のある人たちはよくこんなふうに言う。「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間なんですよ」。
「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間」だと主張するのではなく、「わたしは車いすに乗っていて、その点ではあなたと同じではないけれど、わたしたちは同等だ」と言うことは、どうすれば可能なのだろうか。
(本書第2章「宇宙での車いすのステータス」 P40~P42 一部抜粋)
障害が「ある」状態を「ない」状態に比べて、欠如している状態だと捉えると、
障害のある人間は、障害のない人間と比べて、欠如した存在とみなすことに繋がる。
新しい技術の開発や普及は、欠如を埋める目的で進められることになる。
障害が「ある」⇒「ない」を目指す考え方に、どのような問題点があるのか。
障害者をサポートする新しい技術の開発は、「ある」⇒「ない」ではなく、どのようなベクトルを持つ考え方を基盤に進められるべきなのか。
ウォニョンさんの指摘は、身体障害と技術、社会との関係性をとらえる新しい視点を私に与えてくれた。
一方、聴覚障害者であるチョヨプさんは、自身の障害について、次のように書いている。
わたしは後天的に聴力が損傷されたケースなので、聴者と聴覚障害者の環世界をどちらも経験していることになるが、自分がどのように音を聞いているかを説明するのは容易ではない。あれこれ長々と説明しても相手を完全に納得させることはできない領域なのだろう。そんなふうにかんがえると、他人の環世界を想像するのが難しいのは言うまでもなく、自分自身のそれでさえきちんと理解するのは困難だという結論に至る。
わたしたちは、他人の生はそれぞれ極めて固有のものであるという事実を、知っているのにすぐ忘れてしまう。主観的な世界とは、その世界を実際に経験しながら生きている当人でさえ完全には理解できないものだということを、受け入れることができない。(中略)
聴覚障害者でSF作家であるわたしはときどき、「あなたの障害が作品世界にどのような影響を及ぼしているか説明してほしい」とか「あなたの障害も、SFを書こうと思った理由の一つなのか」といった、明らかな意図が感じられる質問を受ける。そういう質問にはなぜか、相手の望んでいる答えを返したくなくて、こんなふうに答えてしまう。「影響がなくはないでしょうけれど、それほど重要ではありません」。
あらためて考えてみると、最初は重要ではなかったけれど少しずつ重要になりつつあるような気がする。わたしにとってSFを書くことは、自分と異なる存在を探求していく過程のように感じられる。(本書第9章「障害の未来を想像する」P208より)
チョヨプさんの場合、作家としての才能発揮に聴覚障害が関係しているという見方や価値観を押し付けられることが多いのかもしれない。障害が「ある」ゆえに創作することが「できる」とみなされることは、作家にとって気持ちのよいものではないに違いない。
この点について、先にあげたウォニョンさんの指摘にあてはめるなら、
「わたしは補聴器を使っていて、その点では他の作家と同じではないけれど、作家としては同等だ」と言うことは、どうすれば可能になるだろうか。
ということだろう。
著者の2人はそれぞれ、ご自身の経験だけでなく、広告の事例、漫画や評論、小説の例などを多数挙げており、それらを通して「障害」「身体」「テクノロジー」について考えを深めていることが伺えた。
頭の中で何度も立ち止まり、考えを重ねたうえで出された言葉には重みがあるということを、改めて実感させられた1冊だった。