「配慮はしますが、遠慮はしません」
東京・大手町の地下鉄のプラットフォームで、こんなキャッチコピーが書かれた広告を見つけました。
この言葉、何かの本で読んだ記憶があります。
障害のある人との関わりについて書かれた本だったと思います。
「配慮」と「遠慮」をとりまく問題について、改めて考えると、
私は、「知的に障害がある」といわれる人と一緒に生活する中で、
障害に対する「配慮」の必要性を感じることがあります。
一方で、職員さんが障害のある人の支援をする家ではなく、
一人ひとりの「自立」を基本としている家(シェアハウス)ですので、
障害のある人とない人が「対等である」ということを大切にしようと思っています。
余計な配慮はしない。つまり、余計な配慮=「遠慮」はしない。
本当に、その通りだと思います。
しかし、実際は、それほど簡潔に整理がつくわけではなく、
この「配慮」と「遠慮」について、どう判断するか。
しばしば、問われることになります。
例えば、障害のある人が、他の障害のある人の安心を脅かすような言動をしてしまった時、当然、「そういうことは、いけないよね」とか、「みんなで暮らしていくために、大切にしなければいけないことは、何?」という話をすることがあります。
話をしながら、私は、心の中で、「そもそも、なぜ、そのような問題行動をしてしまうのか?」を考えていくことが多いです。
その時に「障害」が理由に、そうしてしまうのか。「障害」とは別の理由で、そうしてしまうのか。という問いが出てきます。
障害があるゆえに「できない」ことは、配慮が必要なことに当たると整理ができます。
障害とは「別の理由」、例えば、その人の性格や人格に触れる部分に理由があると考えた時、そこに余計な配慮は必要なく、遠慮せずに接することだと考えています。
そう思ってみるものの、障害とは「別の理由」について、さらに考えていくと、
「障害」があるがゆえに、これまでの人生の中でさまざまな経験ができず、
それゆえに、理解がしにくいのかなと思うことが出てきます。
性格や人格を形成する過程で、「障害」が影響していると思うと、
「遠慮はしない」と思っていても、揺らぐのです。
「配慮」と「遠慮」
実は、それほど簡単なものではないなぁ、と思ったりします。
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