2023年2月6日月曜日

【サイボーグになる】その技術の進歩は、人を幸せにするか?


障害は、「ある」よりも、「ない」ほうがよい。

新しい医療や技術によって、障害をなくす。

なくすことが難しいとしたら、障害がある身体をサポートして、それまでできなかったことをできるようにする。

つまり、障害が「ある」状態から「ない」状態に近づけていくことが望ましい。

そう考えることに、私はこれまで疑問を持つことはなかった。

 

「サイボーグになる」(キム・チョヨプ、キム・ウォニョン、牧野美加・訳、岩波書店)は、この障害が「ある」よりも「ない」ほうが望ましいとする考え方に、「ちょっと待って」と声をかけてくる1冊だ。

 

この本は、韓国のSF作家チョヨプさんと、作家・弁護士・パフォーマーのウォニョンさんが「身体」「障害」「テクノロジー」を主なテーマとして執筆したエッセイと、二人の対談が入っている。チョヨプさんは聴覚障害があり、補聴器を使用している。ウォニョンさんは車いすユーザーだ。

 

本書の中で、私が自分の障害に対する見方や考え方について「ちょっと待って」と立ち止まり、考え直すことになった箇所を紹介したい。

 

まず、ウォニョンさんが、障害のある身体と科学技術との関係について書いている箇所だ。

 

科学技術の発展は間違いなく、障害のある人の生活の質を高め、苦痛を軽減しつつある。わたしはそうした科学の発展や技術の応用を支持する。(中略)

科学が障害を「欠けた状態(欠如)」としてしか見ないのなら、車椅子はどれだけ進化しても、歩行能力の「欠如」という問題を解決する補助機器としてしかみなされないだろう。障害者は実際に、より進化した車椅子に乗り、より多くのことができるようになったにもかかわらず、依然として自身を欠如した存在だと考えるかもしれない。

 

最先端技術で武装したサイボーグになれば、わたしの「欠如」は本当になくなるのだろうか?映画の中のスーパーヒーローや、華やかなデザインの義足をつけて陸上トラックを走る一部スポーツ選手であればこそ、サイボーグは特別な存在としてみてもらえるけれど、実際に機械と結合して生きている人は依然として「変わった人」扱いされがちだ。そんな社会の雰囲気に反応して、障害のある人たちはよくこんなふうに言う。「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間なんですよ」。

 

「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間」だと主張するのではなく、「わたしは車いすに乗っていて、その点ではあなたと同じではないけれど、わたしたちは同等だ」と言うことは、どうすれば可能なのだろうか。

(本書第2章「宇宙での車いすのステータス」 P40P42 一部抜粋)

 

障害が「ある」状態を「ない」状態に比べて、欠如している状態だと捉えると、

障害のある人間は、障害のない人間と比べて、欠如した存在とみなすことに繋がる。

新しい技術の開発や普及は、欠如を埋める目的で進められることになる。

障害が「ある」⇒「ない」を目指す考え方に、どのような問題点があるのか。

障害者をサポートする新しい技術の開発は、「ある」⇒「ない」ではなく、どのようなベクトルを持つ考え方を基盤に進められるべきなのか。

ウォニョンさんの指摘は、身体障害と技術、社会との関係性をとらえる新しい視点を私に与えてくれた。

 

一方、聴覚障害者であるチョヨプさんは、自身の障害について、次のように書いている。

 

わたしは後天的に聴力が損傷されたケースなので、聴者と聴覚障害者の環世界をどちらも経験していることになるが、自分がどのように音を聞いているかを説明するのは容易ではない。あれこれ長々と説明しても相手を完全に納得させることはできない領域なのだろう。そんなふうにかんがえると、他人の環世界を想像するのが難しいのは言うまでもなく、自分自身のそれでさえきちんと理解するのは困難だという結論に至る。

 

わたしたちは、他人の生はそれぞれ極めて固有のものであるという事実を、知っているのにすぐ忘れてしまう。主観的な世界とは、その世界を実際に経験しながら生きている当人でさえ完全には理解できないものだということを、受け入れることができない。(中略)

 

聴覚障害者でSF作家であるわたしはときどき、「あなたの障害が作品世界にどのような影響を及ぼしているか説明してほしい」とか「あなたの障害も、SFを書こうと思った理由の一つなのか」といった、明らかな意図が感じられる質問を受ける。そういう質問にはなぜか、相手の望んでいる答えを返したくなくて、こんなふうに答えてしまう。「影響がなくはないでしょうけれど、それほど重要ではありません」。

あらためて考えてみると、最初は重要ではなかったけれど少しずつ重要になりつつあるような気がする。わたしにとってSFを書くことは、自分と異なる存在を探求していく過程のように感じられる。(本書第9章「障害の未来を想像する」P208より)

 

チョヨプさんの場合、作家としての才能発揮に聴覚障害が関係しているという見方や価値観を押し付けられることが多いのかもしれない。障害が「ある」ゆえに創作することが「できる」とみなされることは、作家にとって気持ちのよいものではないに違いない。

 

この点について、先にあげたウォニョンさんの指摘にあてはめるなら、

「わたしは補聴器を使っていて、その点では他の作家と同じではないけれど、作家としては同等だ」と言うことは、どうすれば可能になるだろうか。

ということだろう。

 

著者の2人はそれぞれ、ご自身の経験だけでなく、広告の事例、漫画や評論、小説の例などを多数挙げており、それらを通して「障害」「身体」「テクノロジー」について考えを深めていることが伺えた。

頭の中で何度も立ち止まり、考えを重ねたうえで出された言葉には重みがあるということを、改めて実感させられた1冊だった。

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