2018年3月16日金曜日

暇と退屈を混同していました。暇と退屈は違うと知り、哲学の解説を読んでみたら、そもそも退屈って問題なの?と思えてきました。#暇と退屈の倫理学#國分功一郎



「あ~、なんか最近、暇なのよ」
「忙しいより、いいんじゃないの?。暇なほうが」
「う~ん、でも、なんか退屈でさ」
「ああ、暇が問題なんじゃなくて、退屈が問題なんだね」
「え?どういうこと?」

暇で、退屈。
誰でも、一度や二度は、そんなことを感じたり、考えたりした経験があるのではないでしょうか?

『暇と退屈の倫理学 人間らしい生活とは何か?』(國分功一郎・著、朝日出版社)は、
「暇」と「退屈」について、哲学を用いて、解説を試みた本です。

まず、「暇」と「退屈」という二つの言葉は、しばしば混同して使われるが、同じものではないということ。

「暇」とは、何もすることがない、する必要がない時間を指している。つまり、暇は、客観的な条件に関わっている。

これに対し、「退屈」とは、何かをしたいのにできないという、感情や気分を指している。

それは人の在り方や、感じ方に関わっており、主観的な状態を示している。
こんなふうに暇と退屈を定義したうえで、さまざまな角度から考察しています。

哲学者の著書や指摘を紹介しながら、
一つの場所に住む=定住することや、経済の発展と仕事の仕方、消費行動が、暇や退屈に関係していることを、分かりやすく、解説しています。

「暇」や「退屈」って、自分自身に原因があるように思いがちですが、実は、これまでの歴史や、社会の経済の仕組みのなかで、生み出されたものなんだなと思えてきます。

「暇」な時には、「何かしないといけない」という意識が頭に埋め込まれていて、
「退屈」とつながり、何かを探し求めて、行動するように促されている。

そんなふうに捉えてみると、「その退屈って、本当に問題か?」と疑わしくなってきます。

「退屈」というけれど、なぜ、「退屈」だと思うの?
自分が何をしたら、どういう状態になったら、「退屈」が無くなるの?
自分がしたい「何か」が見つからないなら、あえて、何もしなくていいじゃないの?

自分のなかにある「暇」や「退屈」をいったん整理して、冷静に眺めてみると、
自分の生き方や価値観が、さまざまなことに影響を受けていることが分かります。

そのうえで、どう生きるか。ということを、考えるための一冊です。

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