2018年1月26日金曜日

日本を捨てた男たち 窮屈な日本?自己責任?答えのない問題


都心の最低気温がマイナス4度を記録した朝、ふと、路上で生活している人のことが気になりました。

自宅から最寄の駅まで10分ほどの道を歩くのでさえ、寒さで体が縮こまりそう。
深夜、路上で眠っている人たちは、どこへ行ったのでしょうか。
暖をとれる場所へ移動することができたでしょうか。

海外に渡航して困窮した日本人「困窮邦人」を取材したノンフィクション「日本を捨てた男たち」を読みました。

フィリピンに渡航した理由はさまざまで、
フィリピンクラブで働いていた女性を追いかけていってしまったり、借金やその取り立てから逃げるためだったり。
フィリピンをパラダイスのように思っていた人もいれば、日本に居るのが窮屈で、逃げ出したかった人もいます。
日本に帰りたいけど帰れない人もいるし、帰りたくない人もいます。

家族や、仕事や、環境や、個人の性格、さまざまなことが絡み合って、
困窮に陥ってしまい、そして抜け出せない現実。

困窮の原因について、その人に原因がないとは言えない。
でも、「困っている」という状況に対して、何もしないのか?
何かするなら、何を、どうすればいいのか。
私自身が、どうしたいのか。
正直なところ、よく分かりませんでした。
とても複雑で、簡単に答えを出せないのが、
「困窮」の問題なのでしょうか。

ただ、改めて思ったのは
「自己責任」という言葉は、やっぱり、好きになれないということ。

自分のことを振り返って、
「自分で決めてしたことだから、結果について愚痴を言わない」
「自分で選んだのだから、自己責任だよね」と胸の内で言ってみることはあります。

それは、自分の中にある「甘え」を戒めるために使う「自己責任」はあるけれど、
他人に「手を貸さない」ことを正当化するために「自己責任」という言葉を使ってしまうと、とても大切なものを切り捨てるような気がします。

だからといって、じゃあ、「困っている他人がいたら、誰にでも手を貸せるのか?」と問われたら、「はい」とは言い切れない。
見て見ぬふりをしてしまうことも、あります。

例えば、「いじめ」では、加害者と被害者の間に、多数の「見て見ぬふりをする者」がいます。自分が被害者になるのが怖いから、関わりたくないからなどの理由で、「見て見ぬふり」をする。でも、被害者にとっては「見て見ぬふりをする者」も加害者側に感じられます。
傍観者は、加害者と同じかもしれません。

「困窮」の問題も、「いじめ」と同じで、
見て見ぬふりをすることは、加害者側になることになるのではないか、と思います。

自分事として、考えてみる。

まずは、そこを忘れないようにしたいです。

#困窮邦人#自分事#日本を捨てた男たち#読書

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫)



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