2021年5月4日火曜日

【福島モノローグ】他人ごとを、自分ごとのように受けとめるには?

 

 東日本大震災から10年が経過した。
 3月11日に、自分がどこにいて、何をしていたか。 
 それはまだ、思い出せる。

 東京・千代田区、神保町の交差点に立ち、 ちょうど信号が変わるのを待っていた。 
 徒歩で4時間かけて、当時住んでいた都内北区の自宅に戻り、 テレビで見た津波の映像、原子力発電所の映像もぼんやり覚えている。 

 ただ、記憶は時が経つにつれて、しだいに薄れるものであることは経験している。 阪神淡路大震災の時、テレビの映像で見た光景を思い出せるか? と問われると、私は明確に答えられない。 

 自分の身に降りかかった出来事や、その時、どんなことを考えていたかは「自分ごと」だから 記憶にも残り、似たような記憶を持つ人の話を聞いて、共感しやすい。 
 しかし、自分が経験したことのない出来事は「他人ごと」で、 それを経験した人から、その出来事や、その時の気持ちを語られても、 「自分ごと」と比べると「距離」がある。
 「もしも、自分だったら」という想像をしてみても、それはやはり想像に過ぎない気がする。 

 「福島モノローグ」は、東日本大震災で被災した福島の人の語りをまとめた1冊だ。 
 本書に登場する人の中には、どこの、誰なのか。氏名が表されない人もいる。 
 ただ、あの時、どこに居て、どうしたか。 
 住まいや、日々の暮らし、仕事、家族、周囲の人との関わりについて、 ページをめくるにつれ、その人の語り「モノローグ」に、直接、耳を傾けているような気持ちになる。

 「自分」と「他人」の間には、 「自分の身近にいる人々」「自分に関わりがある人々」が居る。 
 語りを聞くということは、本書の登場人物たちを、自分と他人の間に位置付けることになる。 
彼らが経験したことは、私にとって 「自分ごと」ではないが、「他人ごと」でもなく、 少し身近な人々のこととして、受けとめることができるような気がしてくる。 

 著者である、いとうせいこうはその気配を消している。
 語る人の前に居ることは間違いないのだが、本書の中で、著者は声を発しない。 
 被災地の人々、彼らを、読者に近い存在にする 彼らの声がよりリアルに読者に届くこと
を願ってつくられた1冊だと思う。 



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