2016年9月26日月曜日

複眼をもつ



空を見上げると、うろこ雲が広がっていて、

その前をトンボが1匹、通り過ぎていました。

「そういえば、トンボの目って、複眼だったよね」

鷲田清一氏が、複眼について書いていたことを思い出しました。

アイデンティティは、一つに絞る必要はなく、

複数あっていい。というか、複数あったほうがいい。

複数あれば、そのうち一つが弱ってきても、

あるいは外されても、残りのアイデンティティを丁寧に

生きていけば、「わたし」はたぶんびくともしない。

逆に、一つのアイデンティティしかなければ、

それが外されれば、「わたし」も崩れてしまう。

わたしがここで言っているのは、「一つのことに集中するな」ということではない。

一つのことを集中している時でも、複眼をもて、ということだ。

一つの光を当てるより、二つの光を当てたほうが世界はより立体的に

浮彫になってくるのと同じように、

一つの事業をおこなうにも、それを内からと外からと逆向きの2方向から

見る法が、進むべき道がはっきり見えてくる。

(中略)

そういう複眼を独りで磨くのは難しい。

複眼がもてるかどうかは、じぶんとは別な生き方、ものの見方をしているひとたちと、

どのくらい深くて、幅広いつきあいをしているかにかかっている。

「くじけそうな時の臨床哲学クリニック」(鷲田清一・著、ちくま学芸文庫)より。

複眼をもつこと、複眼を磨くことは、独りでは難しい。

誰かの視点が、自分の複眼となり、

逆に、自分の視点が、誰かの複眼に役立つことが

あるかもしれないということかもしれません。


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