意味を求めることの無意味さをときどき、考えよう。
森博嗣さんのエッセイに、
こんなタイトルで書かれたものがあり、ハッとしました。
仕事の癖で、常に「言葉」にすることを意識していますが、
ときどき、ちょっと無理をしているような気もします。
よく分からないけれど、なんとなく、感じているもの。
うまく言葉にできないもの。
そういうものは、そういう感じのままにしておこう。
時がくれば、自然に、言葉になるかもしれない。
そんなことを考えました。
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事象を観察したときに、なぜ、そのようなことが起きるのか、
その理由を考えるのが人間の癖というか、一種の欲望だといえる。
原因とか、理由が明らかになれば、同じ条件が再来したとき、
同様の結果がまた起こることが予想できるので、
そういった情報を知っていることは有利だ。
だから、知りたいし、考えるし、
いろいろなことを試したり、
調べたりするのである。
ところが、こうした有利さをもたらさない問題についても、
とにかく理由を知りたいという欲望が前面にでがちで、
しかもきちんとした論理がなかったり、
再現性がないものであっても、
ただ、その場の「納得」が得られればよいという感情も
人間は持っているようだ。
つまり、わざわざ言葉にして
無理に表現しなくてもよいのではないかと思えるようなものまで、
「理由」の明文化を強いる。
(中略)
「意味のあることをしよう」といえば、
なんとなく前向きな感じがするが、
でも、僕は、時々「もっと無意味なことをしたい」と
あこがれている。
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「もっと無意味なことをしたい」
思考の広がりは、
意味を求めていないところから
生まれるのかもしれませんね。
私は、頭でっかちやなぁ。
って、思います。
もっと自由に♪
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