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講師のお礼としていただきました。セニモのバッグ |
「しよう」と思えばできるけれど、あえて、それを「しない」。
そんな選択をしたことが、ありますか?
例えば、仲の良い同僚の仕事が大幅に遅れていて、
それを手伝おうと思えばできるけれど、
あえて、それをしない。
そんな選択です。
こういう場合、できるのに「しない」を選ぶのは、勇気が要ります。
個人にとっても、「する」を選択したほうが、
「した」という満足を得られるかもしれません。
「できることをした」というほうが、周囲にも説明がつきます。
あえて、「しない」を選択するとしたら
それなりの理由を考える必要が出てきます。
同僚を手伝うか否かの例で考えてみると、
手伝うことで、その場は、早く仕事が終わるかもしれません。
しかし、遅れている仕事を同僚自身がなんとか済ませようという意識は薄れるでしょう。また、別の場面で、同じように遅れても気にしなくなり、スケジュール通りに仕事をすませる努力をしなくなるかもしれません。
心理学者・河合隼雄さんは、エッセイ「働きざかりの心理学」の中で、
子育てに関して「できることをしない愛」というテーマで書かれています。
「ものごとには必ず両面があり、その間のバランスによって、適切にことが運ばれるものである。子どものためなら、どんなことでもしてやりたいという親の気持ちが強くなりすぎると子どもを甘やかしすぎたり、自主性を奪ってしまったりしてかえって良くない。
現在の親たちにとって大切なことは、子どものためならば何でもしてやるというのではなく、できることでも、しないでいることではないだろうか。
これは、何も子どもを放任せよというのではない。単に子どもの勝手を許すのだったら、そこに親の努力は不要である。心のエネルギーを費やさない愛など存在しない。子どものためにしてやりたいのに、しないという点に、親の愛がある」
河合氏の本を読みながら、この記載は、子育てだけではなく、人間関係全般にかかってくるのではないかと考えました。
私は、シェアハウスで暮らしており、他人と一緒に共同生活をしていますが、
対人関係において大切になるのは、「すること」と「しないこと」の両方だと感じています。
互いに気遣い、助け合うことは、「する」に入りますが、
互いに自立し、自律していくことは「しない」に当たります。
「する」よりも、「しない」ことを選ぶのは、とてもエネルギーを要します。
手を貸さないことに罪悪感を感じることもあるし、
「する」ほうが、自分にとっても心地よい気がすることもあります。
それでも、最終的に「しない」を決断する時は、
それが一つの愛だ、といえるだけの理由を考える必要があるのです。
「できることをしない愛」なのかどうか?
自分に問いかけています。
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