もし、私がカメラマンだったら、被災地へ写真を撮りに行くだろうか?
撮りにいくとしたら、何のために、何を撮りにいくのか?
撮りにいかないとしたら、それは、なぜなのか?
東日本大震災からちょうど1年後、
私は、被災地で仕事をしている方を取材する機会を得ました。
取材の協力をしてくださった方は、私を自家用車に乗せて、
津波で被害を受けたところを案内してくださりました。
ある建物は骨組みとわずかな床が残っている状態のままになっており、
3階ほどの高さに白い乗用車が1台、乗っかったままになっていました。
小高い山の中腹から海にかけて、すべてがえぐられて、剥き出しになっていました。
「ここを通るたびに、いつも、何も言えなくなってしまうんですよ」
案内してくださった方が、そう言ったことを覚えています。
私も黙ったまま、何も言葉が出てきませんでした。
カメラは持参しており、
取材対象となった方の顔写真や、医療の仕事をされているところは、
掲載誌に必要なため、撮影させていただきましたが、
津波の爪痕を撮影することは、しませんでした。
私なんかが撮影した写真では、伝えることはできない。
この光景を伝えられるだけの写真を撮る、そういう覚悟がなければ、シャッターを切れないと思いました。
小林紀晴さんの著書「見知らぬ記憶」の中に、
被災地を撮ることについて取り上げた箇所があります。
篠山紀信、荒木経惟、森山大道、ホンマタカシなど、
著名なカメラマンが被災地を撮ることについて語ったインタビューの言葉を抜粋して、紹介しています。
被災地へ撮りに行くことをすぐに決めた人もいれば、
撮りに行くと表現したくなる自分を想像してそれは絶対にダメだと考えた人もいます。
小林さん自身は、答えのない問題として考えを巡らせています。
自分だったら撮りにいくかどうか、写真学校の生徒たちに考えてもらうことをしているそうです。
本書に引用されたカメラマンの言葉に目を通しながら、
改めて、どうするだろう?と考えています。
やっぱり、撮りにいかないような気がします。
ただ、取材して文章で書くということだったら、行くかもしれません。
自分が見たもの、聞いたもの、知ったものから、書くか、書かないかを選びます。
そのなかで、あえて「書かない」こともあるような気がします。
答えのない問題、
答えがないからこそ、考えることが大事だなと思います。
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