2018年7月27日金曜日

自己責任って言葉が、嫌いだった理由  #「原因」と「結果」の法則 #読書





「自己責任」という言葉が、嫌いでした。

「自分の言葉や行動は、自分に責任がある」という意味での「自己責任」は、
その通りだと思うのですが、
例えば、個人の力ではどうにも変えられない現状にいる人に対して、
「それは、自己責任でしょ」と言いきって、突き放してしまうは、少し違う気がしました。

困難を抱えている人に手を差し伸べることをしない理由(言い訳)として、
「自己責任」という言葉が使われている気がして、
それを受け入れたくなかったのだと思います。

『「原因」と「結果」の法則』は、ロングセラーとなっている自己啓発書。
タイトルは耳にしていたのですが、手に取ることを避けていました。

あなたの人生にもたらされる「結果」には、すべて「原因」がある。
「原因」をつくり出しているのは、あなた自身である。

そういうことが書かれていると想像し、
それが上記の「自己責任」に重なって、嫌でした。

実際に手に取ってみて、少し、誤解していたことが分かりました。

著者が伝えているのは、
「原因と結果の法則」を知っておくことは、
より良く生きるためのヒントになるということ。

より良い「結果」をもたらす「原因」とは、どんな「原因」か?
ゴール(結果)と、そこに近づくために必要なもの(原因)は何か?
それらを考えること、つまり、原因と結果のつながり(法則)を考えることが、
将来に向けて行動する際の参考になる。
ということだと思います。

「自分の人生は、自分で創る」という点では、
この本の内容も「自己責任」を含んでいるけれど、
他人に対して何もしないことの理由(言い訳)に使われる
「自己責任」とは異なるものでした。

「原因」と「結果」の法則 https://amzn.to/2AcYzd3




2018年7月25日水曜日

苦手な人を受け入れる方法は、ありますか? #介護民俗学という希望





「他人を変えることは、難しい。だから、他人を変えようとするのではなく、自分が変わることが大切」

人間関係の問題に躓いて悩んでいた時、こんなアドバイスをいただいたことがあります。

他人の価値観や考え方を変えることは、他人次第。
相手に「価値観や行動、態度を変えてほしい」と思っても、なかなか上手くはいきません、

これに対して、相手に関する自分の受けとめ方は、自分で変えられます。
相手は、以前と変わりなくても、自分の受けとめ方を変えることでストレスは軽減します。

六車由美さんの『介護民俗学という希望』は、介護の現場で、高齢者から人生の物語などを「聞き書き」することを通じて、みえてきたものをまとめています。

「聞き書き」とは、対象者(介護の現場では、施設を利用している高齢者)から、若いころの経験や家族とのことを聞いて書き出し、表現していく手法ですが、この「聞き書き」が介護の現場に効果をもたらしているといいます。

なぜなら、介護は、スタッフ(介護する側)と高齢者(介護される側)という「する・される」の関係が固定されてしまいますが、「聞き書き」では、スタッフ(聞き手・教えてもらう側)と高齢者(話し手・教える側)の「するされる」の関係が逆転します。人間関係の再構築が生じます。関係が一方的だと、閉塞感がありますが、関係の再構築により人間関係を豊かにひらくことができるのだと思います。


また、
著者は、表現することと、介護することについて、次のように書いています。

表現することが、すなわち、表現の対象者と誠実に向き合い、対話することであるならば、
介護の現場で、ケアの専門家として利用者さんと向き合い、共に生きようとする介護の在り方と決して矛盾するのではなく、むしろ重なりあうものであると言えるのではないか。
ケアすることと、表現すること、それは人と人との向き合い方の本質的なところでつながっているのである。

私は、冒頭に挙げた「苦手な人を受け入れる方法」のヒントが、ここにあるように思うのです。

「苦手な人」とは、相手の中にある苦手な部分に気が付き、注目してしまうがゆえに「苦手」になってしまいます。そこで、若いころの恋愛、仕事で体験したことなどを聞くなど、人と人として相手に向き合う場面があると、それまで知らなかった一面を教えていただくことになり、「苦手な部分」とは別の部分を新たに知ることになり、相手を受け入れることにつながるように思います。


介護民俗学という希望: 「すまいるほーむ」の物語 (新潮文庫)

#介護民俗学#聞き書き

2018年7月23日月曜日

私だったら、どうする? 答えのない問題を考えてみる #見知らぬ記憶#小林紀晴





もし、私がカメラマンだったら、被災地へ写真を撮りに行くだろうか?
撮りにいくとしたら、何のために、何を撮りにいくのか?
撮りにいかないとしたら、それは、なぜなのか?

東日本大震災からちょうど1年後、
私は、被災地で仕事をしている方を取材する機会を得ました。

取材の協力をしてくださった方は、私を自家用車に乗せて、
津波で被害を受けたところを案内してくださりました。
ある建物は骨組みとわずかな床が残っている状態のままになっており、
3階ほどの高さに白い乗用車が1台、乗っかったままになっていました。
小高い山の中腹から海にかけて、すべてがえぐられて、剥き出しになっていました。

「ここを通るたびに、いつも、何も言えなくなってしまうんですよ」
案内してくださった方が、そう言ったことを覚えています。

私も黙ったまま、何も言葉が出てきませんでした。

カメラは持参しており、
取材対象となった方の顔写真や、医療の仕事をされているところは、
掲載誌に必要なため、撮影させていただきましたが、
津波の爪痕を撮影することは、しませんでした。

私なんかが撮影した写真では、伝えることはできない。
この光景を伝えられるだけの写真を撮る、そういう覚悟がなければ、シャッターを切れないと思いました。

小林紀晴さんの著書「見知らぬ記憶」の中に、
被災地を撮ることについて取り上げた箇所があります。

篠山紀信、荒木経惟、森山大道、ホンマタカシなど、
著名なカメラマンが被災地を撮ることについて語ったインタビューの言葉を抜粋して、紹介しています。
被災地へ撮りに行くことをすぐに決めた人もいれば、
撮りに行くと表現したくなる自分を想像してそれは絶対にダメだと考えた人もいます。
小林さん自身は、答えのない問題として考えを巡らせています。
自分だったら撮りにいくかどうか、写真学校の生徒たちに考えてもらうことをしているそうです。

本書に引用されたカメラマンの言葉に目を通しながら、
改めて、どうするだろう?と考えています。
やっぱり、撮りにいかないような気がします。

ただ、取材して文章で書くということだったら、行くかもしれません。
自分が見たもの、聞いたもの、知ったものから、書くか、書かないかを選びます。
そのなかで、あえて「書かない」こともあるような気がします。

答えのない問題、
答えがないからこそ、考えることが大事だなと思います。



2018年7月18日水曜日

「女子という呪い」は、いつか解けるのか?



男性が子育てをすれば「イクメン」と評価されるけれど、
女性が子育てするのは「当たり前」。

夫や彼氏以上に稼いだ時に、それを隠そうとする妻・彼女。

「がんばれ」「努力しろ」というわりには、
「でも、男以上には成功するな」というダブルスタンダードを要求する社会。

雨宮処凛さんは、これらを「女子という呪い」と位置づけています。

本当は知っていることなのに、わざわざ「知らな~い」と無知なふりをする。
すると、オッサンたちが「こんなことも知らないのか」と言って喜びます。
オッサンたちの話を聞いて「すごーい」と驚けば、ますます喜びます。

いわゆる「さ・し・す・せ・そ」

「さすが~」
「知らなかった」
「すごーい」
「センスいい」
「そうなんですかぁ」

を使いこなせる人は、女子力が高いらしいです。
そういうことを、女子たちは経験的に知っています。

あぁ、でも、私は苦手。

「女子という呪い」に抗うよりも、
「女子という呪い」と上手に折り合いをつけて生きていくほうが、生きやすい。
そうは思うものの、「さしすせそ」を上手く使えません。

「女子という呪い」は、解けるでしょうか。
それとも解けないものだと、諦めたほうがいいでしょうか。

「諦める」という言葉には、
「明らかに、見極める」という意味があると知りました。

「女子という呪い」を解くことを「諦める」というと「負け」みたいですが、
「明らかに見極める」という姿勢は、負けた気がしない。
そもそも、勝ち負けじゃないですし。
明らかに見極めることで、呪いが少し解ける気がします。


#雨宮処凛#女子という呪い

2018年7月6日金曜日

あぁ、「パラ」ちがい 




「あなた、パラリン?」
JR鶴川駅を降りると、腕章をつけた白髪の男性に声を掛けられました。

「えぇ、まあ・・・」
私は、戸惑いを隠せないまま、男性に促されてバス停に向かいました。

関東パラ陸上競技大会の開催日。
最寄の鶴川駅から、町田市立陸上競技場までは、直行のシャトルバスが運行されています。
声を掛けてきた男性は、シルバー人材の方で、バス停をご案内する係の方です。

戸惑った理由は、「パラリン」という一言。
「パラリンピック」を「パラリン」と省略したのだろうと思いますが、
違和感が拭えません。

「パラリンピック」は、2016年のリオ・パラリンピックでは22競技が実施されています。
今日の大会は、パラリンピックの競技のうちの一つ、パラ陸上の関東大会だから、
「パラリンピック」と呼ぶのは、やっぱり、ちょっと変な感じ。

「パラリン」じゃなくて、「パラ陸上」って、覚えてくれないかなぁ…。
そんなことを考えていました。

ところが、今朝、電車の中刷り広告に、「駅パラ」という文字を発見。
広告主は、JR東日本。
やっぱり「パラリン」じゃなくて、「パラ」のがしっくりくる。

最近、地下鉄メトロでも、パラリンピックの競技紹介の映像を流していたりするので、
よく分かっているのかもしれない。

などと、思っていたら、広告の内容が、どうもオカシイ。

パラリンピックの競技とは、どうやら関係がなさそうです。

「駅パラ」とは、駅ビルやショップの最新情報を検索できるサイトのこと。

なぜ、「パラ」とついているのか調べてみると、

「駅パラ」とは、駅を「パラダイス」に、「パラレルに(並んで)」歩む

という意味を込めているそうです。


「パラ」は、「パラリンピック」ばかりじゃないのね。

ああ、「パラ」ちがい。

#パラリンピック#パラ陸上