「それでは、よいお年を!」
年末に届いたメールに添えられていた一言に目がとまり、考えた。
「よい年」って、一体、どんな年だろう?
新型コロナウイルス感染症の問題が終息すること?
ロシア・ウクライナの戦争や、そのほか世界のどこかで起きている人権侵害や弾圧などの問題が解決すること?
「そうあってほしい」と願うけれど、問題が大きすぎて、私個人にできることはささやかなことにすぎないという気がする。
「よい年」という言葉から沸いてくるイメージからは遠い。
日常生活のほうへ目を向けて、「よい年」を考えてみると、
仕事やそのほかの取り組みが上手くいったり
両親や親せき、友人たちが健康に過ごしていて、
趣味や旅行を楽しむ機会があれば、
一年を振り返って、「今年もよい年だったな」と思える気がする。
「よい年」は、少し意味を広げて考えると「幸せ」ってことかな?
と考え始めた頃、月刊誌「すばる」(2023年1月号)の特集テーマが「2023年の幸福論」と知り、手にとった。
この特集では、複数の著者が「幸福」について、様々な角度から論考やエッセイなどを執筆している。
そのなかの一つ、論考「幸せはどこからどこへ向かうのか」(山本貴光・著)では、
「幸福論」といえば引き合いにだされる3人の哲学者、
スイスの法学者・哲学者カール・ヒルティ、
フランスの哲学者アラン、
イギリスの哲学者・論理学者バートランド・ラッセル
を取り上げて、紹介している。
さて、いずれの幸福論も、人間とはどのような存在かという観察と考察を示している。 そうした事の次第からして、その全体を要約することはほとんど意味がないくらいだ。 無理を承知で言えば、ヒルティは思い込みや偏見を捨てること、日々の感情や出来事に重きを置かないこと、仕事を典型とする活動に幸福を求めること、などを幸福の条件としている。 同様にアランは、多様なプロポを通じて、概ね二つのことを述べている。 幸福とは自分でなにかを欲したり、つくったりするものだということ。一時的な体の出来事や偶発的なことにこだわりすぎるのが不幸の原因だということ。 (中略) ラッセルは、彼の主張をこれまた無理やりまとめるなら、自分に没入しすぎるのは不幸のもとであり、自分以外の外界に広く興味を向けて、さまざまな人や物と友好的な関係を結ぶことが幸福の秘訣であるとなろうか。著者は、これら3人の幸福論を踏まえて、いずれも「自分の状態や感情に注意を向けすぎるのは不幸の源」としている点に注目し、「注意をどこに向けるかという共通点がある」と指摘していた。
メールに添えられていた「よいお年を!」の一言から、「よい年とは?」と自問し始めた私は、まさに自分自身の状態に注意が向いていた。
「仕事が上手くいく」「自分や家族、周囲の人々が健康でいる」「趣味や旅行を楽しむ」など、
「こうなったらよい」と思うイメージを膨らませていた。
「こうなったらよい」というイメージを持つことは、今後の目標を明確にし、その実現に向けて努力することもできるから、必ずしも悪いことではないだろう。
しかし、山本さんの論考を読みながら、
「こうなったらよい」だという状態を強く思いすぎているのは、
危険な側面もあることに気が付いた。
例えば、「こうなったらよい」と強く思い描いていたことが実現しなかった時には、
喪失感を味わうことになるかもしれない。
「なぜ、そうならなかったのか」と原因を考え、その原因を他者のせいにして非難したり、個人の力ではどうしようもない環境に不満を募らせたりすることもありそうだ。
マイナスの感情に囚われて、毎日、もんもんと過ごしていくかもしれない。そういう状態は心地よいものではなく、「幸せ」と思えない気がする。
一方で、「不幸せ」について考えてみると、こちらは「幸せ」以上によく分からない。
これまの人生の中で、「辛い」「苦しい」「悲しい」「悔しい」と思った経験はあるが、だからといって「不幸せ」と考えたことはなかった。
月刊誌「すばる」の特集の執筆者の多くが、指摘していることだが、
「幸せ」とは、何か。
は、簡単にまとめるができない。
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