自分の欠けている部分に気がついた時、どうしますか?
作家の村上春樹さんと、臨床心理学者の河合隼雄さんの対談のなかに
なるほど。と感じた一節がありました。
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村上:
人間というのは、多かれ少なかれ、生まれつき欠落部分を抱えているもので、
それを埋めるためにいろいろな努力をするんですね。
ぼくの場合は、三十過ぎてものを書きはじめて、それがその欠落を埋めるための
ひとつの仕事になっていると思うのです。
ただ、埋めても埋めても、これは埋めきれるものではないですよね。
だから、最初はうまく簡単なもので埋められるのだけど、次第にどんどん複雑なものにしていかないと埋められなくなるということになってくるのですね。
芸術行為は、そういう側面をもっているのですか?
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村上さんは、自分自身の欠落部分と小説家としてのお仕事を踏まえて、
河合さんに質問を投げられているのですが、
「欠落部分」については、次のとおり注釈をつけられています。
村上:
欠落そのものは(あるいは病んでいることは)
人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。
欠落部分はあって当然です。
ただし、人が真剣に何かを表現しようと思うとき、それを何とか埋めようとする。
その行為に結果的な客観性がある場合には、それが芸術になることもあるということです。
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芸術までいかなくても、
生きているなかで、人は、何かを表現しようとしている気がします。
ある人は、
親としての愛情を、子どもに向けて表現しているかもしれないし、
ある人は、
仕事のなかで、「自分はこれができる」というものを示そうと
しているかもしれません。
スポーツは、まさにパフォーマンスだと思うことがあります。
「欠落部分」というと、プラスのイメージが持ちにくいけれど、
コップの中に水を満たしていくような感じで、
人生を積み重ねているのかもしれないですね。
今日も笑顔で!
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